特設航空母艦「冲鷹」【護送空母】  | 特設艦船戦史 雑想ノート

特設航空母艦「冲鷹」【護送空母】 

特設航空母艦「冲鷹」【護送空母】 

 

客船「新田丸」を改造。 

 

【改装完成】 

昭和17年11月25日 

【基準排水量】 

17,830トン 

【速力】 

21.0ノット 

【発着甲板】 

172.0メートル、幅23.5メートル 

【備砲】 

12.7センチ単装高角砲8基 

【搭載機数】 

27機 [常用23機、補用4機] 

 

 

昭和17年12月12日~18日

ラバウルに派遣される陸軍の白城子教導飛行団(飛行第四五戦隊の九九式双発軽爆撃機23機と要員203名を搭載)を輸送のためトラックに向かう。

 


昭和18年4月25日~5月13日

「雲鷹」と共にトラックへ飛行機を輸送。〔第二五航空戦隊・第二五一海軍航空隊用の零戦60機〕



昭和18年5月24日~6月9日

「雲鷹」と共にトラックへ飛行機を輸送。

 


昭和18年6月16日~7月2日

「雲鷹」と共にトラックへ飛行機を輸送。

 

 

昭和18年11月30日

軽空母「瑞鳳」、護送空母「雲鷹」、重巡「摩耶」、駆逐艦「曙」「朧」「漣」「浦風」とトラック拍地を出港し、横須賀に向かう。 

この際、駆逐艦「山雲」により撃沈された、米潜水艦「スカルピン」の生存者41名が捕虜として「雲鷹」に21名、「冲鷹」に20名便乗、大船収容所に向かった。

筆者注《HN:mtさんによる米側資料(「雲鷹」のコメント欄を参照下さい)にスカルピン生存者は雲鷹に20名・冲鷹に21名であって、冲鷹の1名だけが助かったので、大船に着いたのが21名という》

 


昭和18年12月3日

夜半 トラックよりの帰途、八丈島東方200浬の地点で、米潜水艦「セイルフィッシュ」の雷撃で魚雷1本が左舷艦首に命中、航行不能となる。 



昭和18年12月4日

朝、避退中に更に魚雷1本が左舷機械室に命中。さらに3本目が命中。

0847 沈没した。

艦長:大倉留三郎大佐が戦死。 

便乗していた、米海軍捕虜の20名も死亡した。

筆者注《HN:mtさんのコメント〈本邦文献で正確に書いてあるものは無く、大戦時米国海軍の潜水艦乗組員だった方とそのHP http://www.subvetpaul.com/を通じて確認しました。
ここにに関係出典」は揃っており、41名中、大船に着いたのは21名で間違いありません。
後は、同じ場所に全文引用されている、冲鷹から唯一助かったGeorge Rocek氏自身の手記に注目すれば、雲鷹20名・冲鷹21名だったことがわかります。〉》




*筆者の別ブログ『航空戦史雑想ノート』にも併載しております。



【参考文献】 

テーマ一覧「主要参考文献・資料」を参照下さい。 

 


[筆者注:調査未完につき、今後大幅に加筆・改訂を予定しております] 

 


初稿  2005-05-24

第2稿 2009-08-01 一部加筆・公開