読書を好んでするようになったのは、大学に入ってからのこと
パラダイスのような高校時代は、現実の生活が面白すぎて、本なんかまともに集中して読めなかった。通学時間は「この駅では、○○先輩が乗ってくる
」とキョロキョロして読書どころではないし、図書館に行ったって、まわりのみんなが気になってしょうがない。家に帰って勉強に励んだ記憶もないので、おそらくくだらない長電話にばかり興じていたのだろう。
社会人になり、通勤時間が長くなったおかげで、読書のペースは飛躍的にアップした
今じゃ、まわりが気になることもない。
もっと若い頃から読書に励んでいれば、ひょっとして今頃、大物になれたかもしれないと、大物にならなかったからこその負け惜しみが頭をよぎるが、いくら思春期に読書したからといって、結局は今の私にたどり着くに決まっている。「もしもあの時…」なんて、年を取った証拠かしら
この夏、インテリE子ちゃんが谷崎潤一郎の「春琴抄」を貸してくれた。
学生の間に読むべき谷崎文学を、この年にして初めて読みきった
今まで、谷崎の本を手に取ることはあっても、いつも3ページくらいで挫折して、最後まで読みきったことは一度もない。
E子ちゃん、ありがとう![]()
E子ちゃんが貸してくれたお陰で、最後まで読み切ることができました。
が、やっぱり難しいものは難しい![]()
句読点はないし、漢字が多い。はっきり言って、息も絶え絶えに読みきった。斎藤孝の表現をお借りすると「多少とも精神の緊張感を伴う歯ごたえのある読書」、まさにそういう感じであった。
読後、込み上げてくる、読み終えた自分に対する感動![]()
そして、文豪に対する感嘆![]()
名前の残る作家には、理由があるのだ。
盲目の美しい三味線師匠春琴に、幼少期から奉公する使用人の佐助。二人の間に恋愛感情があるのだが、階級の違いもあって、お互いに恋心は認めないまま生涯をともにする。気の強い春琴は、ある日、人の恨みをかって、その美貌を傷つけられてしまう。こんな顔は誰にも見られたくない、という春琴。佐助は自ら自分の目をつぶし、盲目の世界へ入っていく。
普通の人には、絶対に思いつけないストーリーだと思った。
時代の違いもあるのだろうが、二人の愛の形は、私の理解を超えている。いたって凡人の私には、佐助の感覚はわからない。それでも、耽美な世界感は伝わってくる。耽美とは、こういうことなのか。
夕立に見舞われた会社帰りの中央線で、「春琴抄」を読み終えた![]()
濡れた折り畳み傘を小脇に抱え、谷崎文学とそれを読み終えた自分にすっかり陶酔しきっていた私。駅についてバッグを見たら、折り畳み傘から染み出した雨水が、愛用している革のバッグに染み込んで、大きなシミを作っているではないか。
がーーん![]()
翌日になっても、残ってしまった雨のシミ。
谷崎文学に没頭するあまり出来てしまった名誉あるシミ、むしろ有難いシミだ
と自分自身に何度も言い聞かせたが、凡人の私は結局、「文豪、私のプラダのバッグを返してくれよ
」としか思えなかった。