古代ローマの貯水槽 Piscina Mirabilis (ピッシーナ ミラビリス) | ナポリのテラスから…

ナポリのテラスから…

南イタリアに住んで25年。彼らの珍妙なライフスタイルに、未だに驚き続ける日々を綴っています。。


◆現在の貯水槽入り口から、内部に続く階段◆

Ciaoooo
どんより雲がかかってる?

と思いきや、空気が汚染しているんだとか。
あっという間に一月も終わろうとしていますが、このお話は、1月の頭に行った時のお話です。


さて、古代ローマ時代はおそらく、ナポリよりもこちらのほうが栄えていたに違いないフレグレイ平野。
Campi Fregrei(フレグレイ平野)へは、ナポリから車で行きました。
バスは信じないほうがいいでしょうという直感からです。大当たり~!
路線バスCTP社は労使交渉中で不通でした。



◆貯水槽は長さ70x横25x深さ15Mで48本の柱で空間を支えています◆


さて、話は長くなりましたが、

このエリアはポンペイが埋もれる原因になった、ベスビオの79年の大噴火の際は、
大プリニウス、小プリニウスもいた、ローマの軍港ミセーノがあります。

カンパニア州の内陸のアベリーノ県ミセーノのテルミ二オ山から、このミセーノの軍港まで約100Kmの水道。
紀元前33年、水道を建築するのですが、本当にローマ人の土木と建築の知識って、今でも通用するものがたくさんあり驚きます。
はっきり断定されてない部分もあり、更にこの水道が走るのは、ベスビオの裏側(海ではなく、Nolaという町のほう)なので、
ポンペイやエルコラーノから離れているため、海側の町には水道は供給されていたのでは?という説もあったりしますが、

79年の噴火で水道橋は残っていないので、現在は、公式には主要8か所
(Nola、Acerra、Atella、Napoli、Pozzuoli、Baia、Cuma、Miseno)の沿道の町に水を供給していたことになっています。



◆段差の深い部分に沈殿物が集まるようになっていたようです◆

 

当時3000人の水夫、16000人の兵士、15000人の漕ぎ手で計34000人がいたといわれるミセーノの軍港。
一人1日5Lと換算しても一日で170立方メートルの水が必要だったのです。
お水は貯水槽の天井部分から井戸のように引き上げられて使われてたそうです。

 


段差のついた場所は床に0.5%の傾斜を与え、沈殿物がそこにあつまるようになっていて、
掃除をしやすくしていたようです。また、柱と床の接する部分は直角ではなく、カーブを与え、ごみをたまりにくくしています。
以前、とある食品工場見学に随行しましたが、ISO規格で新設された工場の廊下は全く同じ原理で

古代ローマ時代の知識すごさにびっくりです。2000年以上前に考え実行されていたんですから。


◆ガイド付きツアーです。実は日本語バリバリのガイドGさん◆

まぁ、難しい説明よりも、みて感じるべき場所だと思います。
ここで終わりなのか?と思いきや、実はこの先に、更に水道は続いているらしく、
100Camerelle(100の小部屋の意味)という貯水槽があるのです。


この辺りは、軍港ミセーノの他にも、貴族の夏の別荘や邸宅が林立してた場所なので、
100Camerelleは、別荘の地下にいけすを備えた貯水槽としてあったといわれているみたいです。
またいつか、行く機会がありますように(o^―^o)ニコ

 

ラブラブラブラブラブラブ また行きたーいラブラブラブラブラブラブ