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🌹 ②わずかに残る旧甲州街道の忘れ形見を見る 

 

 

 

 

 

かつての八王子の町は甲州街道の宿場町として多くの街道が交差し武州と江戸、甲州、上州、相州を結ぶ物流の要衝となり絹の集散地として繁栄した

 

 

甲州街道は五街道のなかでも距離が短く、また参勤交代で利用する藩は2藩しかなく大きな宿場町は起点の内藤新宿、府中と日野、そしてこの八王子ぐらいしかない小規模の街道であったが、人口は幕末期で6000人を越えるという東海道の宿場町並みの規模を誇った

 

 

そして横浜の開港をきっかけに絹の需要が高まる明治時代初頭には、早くも人口は1万人を超えて延々一里も続く町並みが形成されたが、第二次世界大戦時の米軍の無差別爆撃によって町並みは壊滅してしまった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦後は目覚ましい復興を遂げて再び繁栄を取り戻すが、そういった経緯のため古い建物はほぼ一掃されてしまい、目ぼしい戦前物件は八王子まつりのシリーズで紹介した2棟ぐらいしか残されていない

 

甲州街道沿いの町並みも発展に伴い古い建物は次々と解体されて、今では屏風のようにビルが並ぶ面白味も個性もない風景が続く

 

 

ところが、京王八王子駅のすぐ先で浅川までのわずかな区間に残る旧街道は、繁華街から外れているため、八王子駅の周辺とは思えない昭和な雰囲気の町並みが残っていた

 

上の写真は前回の記事で取り上げた「加藤畳店」と「飯塚絹撚株式會社」が両方写りこむように、旧甲州街道を撮影したもので、画面の奥に真っ直ぐゆくと京王八王子駅に出る

 

 

この写真を撮影した僕の立ち位置のすぐ後ろで旧甲州街道は曲尺手になっており、直角に曲がっているが、その曲がり角のすぐ手前に……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

錆びついたブリキ波板で構成されたこんな渋い平屋の商家が残っていた

 

建物のファサードには、廃業した建物にハイエナのように群がる政党ポスターが傍若無人に貼られてしまっているので、廃業した物件と見て間違いないだろう

 

 

建物自体はバラックに毛が生えたような簡素なもので、さほど見所はないが、注目すべきは……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

建物の区画そのもので、ご覧のように間口が狭く奥行きが長い鰻の寝床状の典型的な街道筋の商家の構成になっていることだろう

 

前回の記事で紹介した廃業してガランドウにされていた看板建築も、同じように旧街道の土地割になっていたが、こちらの物件は少し様子が異なり、ひとつの商家ではなく奥に向かって建物が並んでいた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

旧甲州街道に面した平屋のバラック商家の後方には、平屋建ての住宅があり、次に二階建て住宅、そしてその隣には再び平屋の住宅……と、八王子というよりも、まるで墨田区京島のような風景に驚く

 

東京の下町方面の似たような物件との最大の相違は、下町が路地裏プランターなのに対してこちらは植え込み+プランターであることだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とくに僕の心をとらえたのは、こちらの越し屋根のようなものがついた平屋建て住宅で、玄関前の屋根庇にまで伸びたバラの蔓、無造作に置かれた植木鉢とピンク色の傘が、なんとも言いがたい風情を醸し出していた

 

ところで、この旧道の部分は新しい甲州街道、つまり国道20号線から曲尺手状に分岐して、この平屋住宅群の先で再び直角に曲がっている

 

 

 

 

 

 

 

 

地図で示すとこんな感じ

 

僕は国道20号線ではなく「麺笑巧真」という、ヘンテコな屋号のラーメン屋の文字が記されたところの左の細い裏路地から旧甲州街道に出て、上方に向かい「竹の花公園」という文字の左下の丁字路「├」に差し掛かったわけだ

 

この丁字路の手前にあったのが前掲の平屋住宅群で、旧甲州街道はその先の角を右に曲がっている

 

 

そして丁字路を曲がったとたんに驚愕の物件が目に飛び込んできた!

 

 

 

 

 

 

 

 

これには心底驚き思わず心のなかで「うおっ、マジか!?」と、叫び声をあげていた

 

ということで、こちらの物件に関しては次回の記事で詳細にお伝えしよう。ちなみに今回の取材対象は、前回の冒頭で述べたようにわずか200メートルほどの距離しかないため、このシリーズは次回が最終回である

 

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

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