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🍱 ⑧直線化される曲尺手とキッコーブンザン 

 

 

 

 

 

今回から舞台を溝の口から新丸子~武蔵小杉に移して、中原往還とその周辺に残る古い物件を紹介する……

 

が、その前に以前、当ブログの写真が別のメディアで使用されたことを書いたが、今度はメジャーなメディアから使用したいと連絡を受けて快諾した

 

僕は見たことがないが、BS-TBS「町中華で飲ろうぜ」という番組で使用されるようだ

 

 

無断転載は断固お断りだが、このように事前に連絡を入れてもらい出展を明らかにすれば、とくに断る理由はないので、もし使いたいという要望、依頼があれば……

 

 

pias808eg@gmail.com

 

--に連絡をいただければ、よほどのことがないかぎり承諾する方針である

 

この依頼を受けたのは少し以前のことだが、何故、今になって書いたかというと、その写真は武蔵小杉を撮影したもので、今回から新丸子~武蔵小杉編をはじめるからタイミングを合わせた

 

 

 

という、ビジネスライクな前おきはともかく

 

 

 

中原往還は東海道のショートカットコースの役割を担っていて虎ノ門から平塚市の中原に至る街道で、勘定奉行が管轄するれっきとした脇往還である。江戸を出て最初の宿場町が丸子宿で、町並みは隣の小杉村と連なっていた

 

 

つまり、川崎市の中原区を通っているから「中原街道」なのではなく、江戸から徳川家康の造った御殿のある中原を結んでいるから中原街道という名称になったわけだ

 

じつは、この丸子宿にも徳川家の御殿があり、小杉御殿町などの地名があるからややこしいが「中原」は、元々川崎市の地名ではなく平塚の御殿から来ている

 

 

宿場町の範囲は多摩川の丸子橋から南武線の武蔵中原駅付近まで。小杉十字路で八王子道(府中街道)と交差しており、江戸時代から昭和30年代頃までは駅前ではなく、そのあたりが中心街を成し芝居小屋などもある賑やかな場所であった

 

現在は雨後のタケノコよようにタワーマンションが林立する武蔵小杉がこの界隈の中心街であるが、昭和中期頃までは色街があった新丸子のほうが圧倒的に栄えていて、医大通り商店街などは真っ直ぐ前にすすめないほど賑わっていたそうだ(祖父談)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

武蔵中原駅の脇を通る中原往還に出てすぐのところに、いかにも昭和中期に建造されたものと思われるこんな建物がある

 

このいくつかの建物が合体したような建物は「仕出し そとやま」の看板の出た駅前側の入り口から内部にL字の回廊がある

 

 

通路は反対側に抜けられる構造になっており、そこにいくつかの店舗が並ぶ僕の大好物のマーケット形式の商店街で「中原マーケット」という

 

 

 

 

 

 

 

 

おそらく改装直後に撮影された写真を見ると3棟の建物の真ん中が回廊になっているようだ

 

このマーケットは戦後すぐの昭和24年に造られた頃は、12もの店舗が入居して賑わっていたそうだ。現在の建物に建て替えられたのは昭和45年頃であるが、近隣に「業務スーパー」「マルエツ」などが出来てしまったため、すっかり衰退してしまった

 

 

ちょっと前までは洋品店や飲み屋(一時期、骨董屋もあった記憶が)なども入居していて、マーケットの体裁を保っていたが、現在は「仕出しそとやま」とクリーニング店しか残っていないようだ

 

何度も書いているが、このような個人商店が集まったマーケットは、首都圏近郊にはいくらでもあった様式だが、大型スーパーなどに押されて現在は消滅の危機にある

 

 

僕は子どもの頃から何故かこのマーケットが好きだったので、これからも追及したいテーマのひとつである

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中原マーケットの真横には、かつて二ヶ領用水の今井堀が流れていた

 

現在は更地のまま放置されている隣の大きな屋敷跡とブックオフのすぐ横を、木月堀が平行するように流れ、この写真の数十メート先でわずか数メートルまで接近している

 

 

用水路がニアミスする滅多に見られないその風景は、暗渠マニアのあいだでは知られたスポットで何人ものブロガーが取り上げている

 

 

 

 

 

 

 

 

中原駅から小杉十字路までは、かつては商家や有力者の屋敷などが並んでいたが、現在はマンションなどに上書きされてしまい、街道の風情などほとんど何も残っていない

 

マーケットの横にある広大な更地は、その有力者の屋敷跡で屋敷神が残っているだけで、更地のまま20年以上放置されている

 

 

今井堀の横に祀られた小さな道祖神は、かつての往還を偲ぶ数少ない名残と言えよう

 

 

 

 

 

 

 

 

写真を撮りたくても小杉十字路までは、街道の痕跡などは文字通り何も残っておらず、寺院以外はこのちょっと古そうな石材店が、唯一の街道っぽい名残だろうか

 

そして、芝居小屋などもある繁華街だった小杉十字路から先は、僕が子どもの頃までは書店などもある商店街を形成していたが、平成以降、廃業が相次ぎ今は店などは数軒しか残っておらず商店街は完全に消滅してしまった

 

 

近年になってこのあたりに引っ越して来たひとに、ここは昔は中原区でいちばん賑やかな繁華街だったんだよ。などと言っても信じてもらえないだろう

 

 

その消滅した商店街の先は、西明寺のところで曲尺手になっている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この曲尺手は、ただでさえ渋滞する中原街道の邪魔者として、現在直線化する工事が進行中で、徳川家康が造らせた歴史的な町の構造は、現代人の勝手な都合によりもはや風前の灯となっている

 

曲尺手を抜けると左手に、明らかに戦前物件だとわかる出桁造り商家が見えてくる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今、気がついたがこの建物、出桁造りの房総スタイルではないか

 

まさかこんなところまで房総半島の様式が伝播しているとは思えないので、おそらく偶然の一致であろう。と、このときは思ったが、房総伝播説は、この後さらに疑惑を増すのである

 

 

こちらの「石橋醤油店」は明治3年から昭和23年まで「キッコーブンザン」という醤油を醸造販売していた醤油屋で、当時は東京にもかなりシェアがありトラックなどで輸送していたそうだ

 

 

 

 

 

 

 

 

建物は現在も当時の面影をよく残しているが、中原街道の拡幅工事により、店先はいささか窮屈な感じになっている

 

4枚前の写真を見ると店舗の隣はガランとした駐車場になっているが……

 

 

 

 

 

 

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ほんの数年前までは、このように醸造に使用したものと思われる土蔵が2棟並んで残っていて、かつての街道の雰囲気を感じさせる貴重な風景を作り出していた

 

ところが、ある日通りかかると土蔵が跡形もなく消え去って、どうでもいい駐車場にされていて、かなりショックを受けた

 

川崎市は文化事業というのはミュージアムさえあればオッケーと浅薄な考えを持っているのか、民家園があるくせに肝心の地元の古民家はシカトしており、こんな事態ばかりが起こる。千葉や埼玉とさほど変わらない文化後進自治体と言っても過言ではない

 

 

曲尺手は直線化され石橋醤油店の土蔵もなくなり、もはや、かつての街道風情は皆無と言ってよいだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは数年前に撮影した夜の石橋醤油店。この風景はもう二度と見られない

 

この石橋醤油店のすぐ先の交差点は、新丸子駅前から続く商店街の外れにあたり、そこにも古い建物が残っているので、次回は街道を外れてそちらのほうに向かう

 

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

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