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🚧 ①まず最初は矢倉沢往還・二子溝口宿から 

 

 

 

 

 

今回から予告していた川崎市中部に残るディープな建物を訪ね歩く企画を連載するが、最初に断っておくと川崎市には、町並みとしてまとまって古民家が残る場所など存在していない

 

というのは、川崎市は東京と横浜という首都圏の要となるふたつの自治体にサンドイッチされた位置にあるため、古くから都市化、宅地化が進行していたことが要因である

 

 

江戸時代、現在の川崎市域にあった大きな町は、川崎大師の門前町を別にすると、すべて街道に関係した町である

 

 

① 川崎駅付近の東海道の川崎宿

 

② 中原往還の丸子宿とそれに連なる小杉村。現在の東横線の新丸子と武     

  蔵小杉駅にあたる

 

③ 矢倉沢往還の二子溝口宿。こちらは現在でいうと東急田園都市線の二           

  子新地、高津、溝の口駅までの区間

 

④ 津久井道の登戸宿。こちらは小田急線の登戸、向ヶ丘遊園駅の区間だ

 

 

このうち川崎宿は戦災と開発によって古い建物は壊滅しており、見るべきものは何もない。東海道の宿場町では堂々の最下位だ

 

丸子宿と小杉村は狂乱のタワーマンションラッシュから想像がつくように開発によって、やはりほとんど壊滅しているが、わずかに戦前物件か残っている

 

 

二子溝口宿は、やはり再開発によりほぼ壊滅状態にあるが、こちらもわずかに戦前物件が残る

 

最悪なのが登戸宿で、こちらは曲尺手を含む宿場町の面影が川崎市内で、もっとも色濃く残っていたが、数年前から大規模区画整理事業がはじまり、町並みどころか区画ごと消滅してしまった。もっとも愚劣な再開発の代表例と言えよう

 

 

したがって今回は登戸宿は取材の対象外で、まずはかつての矢倉沢往還(大山街道)の宿場町として栄えた二子溝口宿からはじめる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二子溝口宿は、二子と溝口のふたつの村落が連続する宿場町で、現在でいうと東急田園都市線の溝の口、高津、二子新地駅の3駅にまたがり江戸時代の人口は約千人であった

 

これは津久井道の登戸宿とほぼ同じ規模だが、登戸宿が歓楽街的な町だったのに対して、二子溝口宿はビジネス街的な町で、矢倉沢往還で唯一の薬種屋で現在も営業を続けている灰吹屋がある

 

 

武州の宿場町は、浅草の隣の千住を別にすると府中の3600人、日野の1800人と、比較的大きな宿場町が多く八王子にいたっては6000人もの人口があったので、宿場町としては中規模といえる

 

よくこの数字だけで人口をはかるひとがいるが、これはあくまでも宗門人別帳に記載された数なので、働きに来ている労働者、人足や馬丁、職人などは含まれていない。幕末期の八王子は7000人の記載があるが、実数は1万人以上はいただろう

 

 

二子村の名主は「芸術は爆発だ」のセリフで知られる岡本太郎の母、作家・岡本かの子の実家である大貫家が勤めた

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらが大貫家と大貫病院。洋館の病院は、駐車場にAE86レビンとホンダ・シティが停まっていることからわかるように、平成初期頃まで残っていた

 

大貫家は大名家にも金を貸すほどの分限者で、明治以降は大貫病院を経営していたが、現在は跡形もなくなりマンションが建っている。病院が廃院したあとも入り口に土蔵だけは残されていたが、マンション建築のときに消え失せてしまった

 

 

ところで、大貫病院の上の2枚の写真は、二子新地駅前の小規模な商店街で、下は、その商店街から多摩川の脇を通る多摩沿線道路方面に向かって歩き、商店街が尽きた場所である

 

 

このあたりには、かつて三業地があり多摩川の川沿いの田園地帯のなかに、料亭や旅館などが点在している風光明媚な場所だったそうだ。ちなみに三業地を誘致したのは大貫家である

 

現在、その三業地の面影は欠片も残っていないが、たった1軒だけ当時の面影を色濃く残した料亭が現存しているので、二子新地駅からそちらに向かうと……

 

 

 

 

 

 

 

 

あれっ、なんだか大規模な工事をしてるんだけど大丈夫か? と、一瞬焦るが、目当ての物件は工事現場の向こう側に残っていた

 

しかし、隣にマンションなんか建ってしまったら、それこそ風情がぶち壊しになってしまうだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらがその「料亭 やよい」である。黒板塀に簓子下見板張りのいかにも料亭といった佇まいで、現在も看板を掲げているので、まだ営業しているのだろうか?

 

かつては多摩川べりに広がる田園地帯のなかに、このような料亭、料理屋、待合い、茶屋などが点在していて粋人は、わざわざ東京から遊びに出向いたわけだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし現在は周囲を完全に住宅街に囲まれてしまっており、田山花袋が随筆に書いたような風光明媚な田園風景などは欠片も残っていない

 

この料亭から矢倉沢往還(大山街道)に向かう

 

 

僕が子どもの頃は看板建築や出桁造り商家など、往時の面影を残した建物がわりと残っていて、往還に住んでいた親戚の家に行くと「古い建物だなあ」と、幼心に立派な出桁造り商家を見上げた記憶が残っている

 

 

その頃は大貫家には入り口の左手に土蔵、奥に洋風建築の病院の建物も残っていたことを、今でもはっきりと覚えているのは、子どもながらに古い建物に興味があったからだろう

 

しかしそういった建物は次々と解体されてしまい、現在は無個性でツマラナイ建物が並ぶ平凡な町並みになってしまった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二子新地駅の近くに、解体を免れたモルタル外壁のアパートが2棟残っていた

 

1階の部分が店舗になっていて、2階に居住していた昭和中期頃によく見られる建造物だが、こちらは店舗の後方がアパートになっている珍しい形式である

 

 

いまだに解体されていないのは、店舗は廃業してもアパートの部分には、まだ入居者がいるからだろうか?

 

ちなみに漫画「グラップラー刃牙」の登場人物、花山薫のモデルになった伝説の喧嘩師、安藤組の幹部だった花形敬が刺殺されたのは、このアパートの後方、少し多摩川寄りの路地裏だったはずだ

 

 

 

 

 

 

 

 

この斜め向かい側には、こんな看板建築があったはずなのだが見落としたのか、あるいは解体されてしまったのか、撮影し損ねてしまった。これは6年ほど前に撮影したものだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その先には土蔵造りの巨大な金物屋が残っているが、この日は隣にある作業場が工事中で店も閉まっていた

 

しかし、よく見ると以前と何か印象が違っている。ここはよく通る道なので、何が違うのかはすぐにわかった。この店の前には……

 

 

 

 

 

 

 

 

こんな大きな釜が置かれていたのが、きれいさっぱり消えているではないか

 

この大釜は大昔にNHKの大河ドラマで盗賊、石川五ェ門が釜茹でにされたシーンで使用されたそうだ。釜はこの店が造ったもので、放送後からずっと店先にディスプレイされていたのたが、それがなくなっていたのだ

 

 

定休日のたびに、こんなデカイものをいちいち片付けるとは思えない。ということは、もしかして廃業してしまったのか気になるところである

 

 

余談だが、石川五ェ門は釜茹で処刑されたが、釜に入っていたのは熱湯ではなく油だったそうだから正確には釜茹でではなく「釜揚げ」ではないだろうか?(←ここで「うどんかよ!」と、ツッコミを入れてほしい)

 

そういえば以前の街灯には「大山街道」というプレートがあり、宿場町を売りにしていたが、あまりにも風情がなくなったから恥ずかしくなって撤去したのだろうか?

 

 

という、どうでもいい話はともかく、この金物屋の前をとおり矢倉沢往還を高津駅方面に向かってしばらくゆくと

 

 

 

 

 

 

 

 

僕も時おり利用していた高津図書館の入り口の隣に、昔の宿場町の面影を残す、間口が狭く鰻の寝床状の土地割りを残した平屋建ての看板建築が残っている

 

かつては文具店か雑貨店だったような記憶が残っているが、現役だったのはずいぶん昔の話なので、記憶はあやふやで確証はない。もしかしたら手芸用品店だったかもしれない

 

 

そして、この平屋建ての看板建築の隣に、再開発著しい矢倉沢往還沿いに残る数少ない戦前の建物のひとつがあるが、それは次回の記事にて紹介しよう

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

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