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🐮 ⑥日進堂材木座支店と房総スタイルと清水湯 

 

 

 

 

 

久しぶりのドジを組んだ。ドジは「踏む」ものではなく「組む」というのが正しい表現であることを知るひとは少ない

 

 

という話より、そのドジのことだ。なんと予約投稿を間違えて2日ぶんいっぺんに投稿してしまい、しかもそのことに午後2時まで寝ていて気がつかなかったのだ

 

寝ていたのだから気づかずにいて当たり前なのだが、寝ている間にコメントが2つ入っていた。しかし、そのまま放置しておくわけにもゆかずとりあえず「下書き」に戻した

 

 

なので、今日は公開時にすでにコメントが入っているという不思議な事態になったわけだ。以上、前おき終了!

 

 

 

 

 

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さて、小町大路を材木座方面に向かって歩いていると鎌倉十橋に選出された「乱橋」の欄干と暗渠を発見した

 

 

「鎌倉十橋」などというフレーズを見て、鎌倉の橋ベスト10企画を考えてまで観光客誘致かよ! と、思ったら、この鎌倉十橋というのは、昨日今日の企画などではなくて驚いた

 

この鎌倉十橋が選ばれたのは、なんと江戸時代のことで、つまり鎌倉は江戸時代から観光客誘致を考えていたわけだ

 

 

ここでちょっと背景を説明しておくと……

 

ご存じのように江戸時代は各所に関所が設けられ、また江戸府内を離れる旅をするときは町名主に手形を貰わねばならなかった

 

というのは建前で、そんなのブッチできるのがいわゆる「参詣」である

 

 

江戸も末期になると、伊勢参りが大流行するが、それ以前から鎌倉から江ノ島にかけての参詣にかこつけた遊山旅行は、落語のネタになるほどポピュラーな観光だったのだ

 

そのことは、参詣するルートには鎌倉なら藤沢宿、川崎大師なら品川宿、成田山新勝寺なら船橋宿と、遊女と遊べる宿場町が存在し大いに栄えたことが証明している

 

 

「入り鉄砲に出女」なんて言葉が伝わるぐらい、女性の旅行が制限されていたような印象も誤りで、これも江戸末期の話だが、武州のとある農村の夫人グループが、神社仏閣巡りという建前で関東エリアをくまなく周遊した旅行記録が残されている

 

江戸時代は幕府の締め付けが厳しく不自由な時代という印象は、明治以降になって新政府が自分たちを正当化するためでっち上げた、ネガティブキャンペーンが、そのまま歴史的事実のように誤って伝わった事例が多い

 

 

 

 

 

 

 

 

という話はともかく、せっかく鎌倉十橋に選ばれた乱橋の下を流れる川は、カラカラに干からびてしまっており、風情のないこと甚だしかった

 

しかし、そのマイナス要素を吹き飛ばすかのように、川のほとりには……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう何棟めなのか数が多すぎて忘れてしまったぐらい鎌倉ではポピュラーな、房総スタイルの古民家が!

 

こちらも錆びついたブリキ波板の屋根を備え、門の奥には見事に整えられた松の木が植わっていた

 

 

鎌倉には貧乏臭いバラック建築ではなく、このような優雅な平屋建て住宅が多く見られることから、やはり鎌倉の平屋建て住宅というのは、余裕のある生活スタイルから生まれたものと考えて間違いないだろう

 

もっとも、個人的には粗製乱造のバラックがないのが、逆にちょっと寂しいが……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この通りもかつては商店街のように店が並んでいたことを示唆する廃業した看板建築が並んでいた

 

建物はおそらく昭和40~50年代頃の建造物だと思われ、そのことから昭和中期頃までは、この小町大路ももう少し賑やかな通りだったことが想像できる

 

 

もちろん、床屋を筆頭に現在も営業している店舗がないことはないが、ほとんどの商家は廃業してしまっているような印象が強く、こちらの看板建築などは「明治乳業」の「五所神社前販売所」という看板が残ったままになっていた

 

その隣にも似たような戦後型看板建築があるが、こちらは2010年のストリートビューの時点ですでに廃業してしまっていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その先に、驚いたことに大町で見つけた鎌倉の名店「日進堂」の材木座支店があった

 

地元で人気の店というのは、前回の散策後の調べで判明していたが、まさか材木座に支店があるとは驚きである

 

 

店内には人気のカレーパンをはじめとして、内容不明の菓子パン、ラスクやクッキーをはじめ、懐かしのシベリアまで売られていた

 

残念ながら、散策の直前に昼食を摂っていたので、またしても「日進堂」のパンを食べるという野望は棚上げすることにした

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみにストリートビューには、この「日進堂」の少し先に「趣味の京染め」という看板が出ていた戦前物件の渋い店が写っているが、僕が散策したときには、こんな建物などはどこにも存在していなかった

 

つまり、この古い商家はごく最近、おそらく昨年末ぐらいに解体されてしまったのだろうファッキン!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解体された趣味の京染めの店の少し先にある水道路交差点には「熊沢洋品店」という、タバコも売っている現役の洋品店があった

 

隣の廃業してしまっている戦後型看板建築は、過去のビューを見ると布団屋だったようだ

 

 

この左手には、洋食屋「ルアーズ」、中華料理「盛華園」などを筆頭にカレー屋、カフェ、お好み焼き、和食料理などの飲食店が集中しているのに、普通の店舗は、ほぼ皆無で「盛華園」の隣の八百屋も廃業していた

 

「熊沢洋品店」の信号を鎌倉駅方面に十数メートル行ったところには

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和30年創業の銭湯「清水湯」が残っている。なせ“残っている”という表現を使ったかというと……

 

かつての鎌倉には腰越、大町、御成町、長谷など大きな町にはたいてい銭湯があったのに、銭湯離れと後継者不足により次々と廃業してしまい、この清水湯が鎌倉の旧市街に残る唯一の銭湯になってしまったからだ

 

 

僕は単なる行きずりの散策者なので、この銭湯に何ら思い入れはないが、大学時代にウィンドサーフィンをしていたブロ友さんが、その頃、寄宿舎とてこの銭湯の2階を利用していた

 

--というコメントを下さったが、じつは撮影したのはコメントをいただく以前のことで、地図でこの物件を見つけたとき、どうしても一目見ておきたくなり、寄り道して撮影した

 

 

 

 

 

 

 

 

ご覧のように唐破風屋根の玄関を備えた典型的な銭湯だが、これが鎌倉旧市街最後の銭湯だと思うと何やらありがたく見えてくるから不思議だ

 

銭湯の横には暗渠のような隙間があるが、近くを流れている逆川関係の水路だろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

清水湯のあった横道から再び小町大路に戻ると右手前方に、遠目からも明らかにタダモノではないぶっとい破風を持つ、戦前物件ほぼ確定の出桁造り商家らしき建物が見えた

 

しかし、こちらの物件も板塀で囲まれてしまっており、おまけに道路からかなりセットバックされているようだ

 

 

果たしてこの物件の実体は? ということで……続く

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

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