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☔ ①降り立ったところは平凡な駅前  

 

 

 

 

 

前回の連載は、お洒落な横浜のイメージなど木っ端微塵に吹き飛ばすディープな鶴見駅周辺の商店街の数々を散策した

 

しかしディープといっても、それはあくまでも工業地帯に隣接するいわば「当たり前の町」で、隣の川崎とさほど変わらず、同じ横浜にある、かつての黄金町や日の出町のようなヤバい場所ではなかった

 

 

タイトルバックの写真は、昔はヤバかった町、京急の黄金町駅のホームであるが、その隣の駅の南太田こそ、横浜の“最深部だった”といってよいだろう

 

何故「だった」と過去形なのかというと、南太田が最深部だったのは、せいぜい今から60年前までのことで、外聞の悪いものは徹底的に「なかったこと」にする横浜市の方針によって、今は跡形もなくなってしまっているからだ

 

 

 

 

 

 

 

 

散策を実施したのは大型の台風が上陸した翌日である

 

何もそんな日に行かなくても……という意見はもっともであるが、休みの都合上、この日を外すわけにはいかなかったのだ

 

 

今年は異常気象も行くところまで行き着いたような天候が多く、この日も例年なら台風一過となるはずなのに、台風が過ぎても時おり雨が降るという、今まで経験したことのない変な天気であった

 

したがって、いつ雨に降られるのか予測がつかず、1940年代に英国で発明された綿100%の防水素材ベンタイルを使用したナイジェルケーボンのスモックに、エディー・バウアーのブッシュショーツ、完全防水のゴアテックスを使用したダナーのブーツで武装した

 

 

この装備なら、よほどのどしゃ降りでなければ余裕で散策できる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらが京急の南太田駅前の風景だ。駅前広場に整備され、こじんまりとした個人商店が並び駅前風景につきものの全国チェーンの飲食店、コンビニ、ドラッグストアなどは見当たらない

 

今でこそ、このような無害な風景になっているけれど、画面の奥の工事中のところには、以前はバラックに毛が生えたようなディープな飲食店廃墟などがあり、もっと場末的な風景であった

 

 

しかし、横浜の中心部まで徒歩でゆけるロケーションに、全国チェーンの店がない、などということはあり得ず、そういった小綺麗な店は……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

駅の反対側の大通り(桜木東戸塚線)沿いに並んでいた

 

この駅の状況を簡単に説明すると、まず、この大通りをまっすぐ(写真奥)にゆくと黄金町、日ノ出町をなどを抜けて野毛から桜木町駅前に出る。反対側にゆけば井土ヶ谷から東戸塚だ

 

こちら側は台地の下の海寄りの部分で、写真奥のセブンイレブンの後ろを大岡川が流れている。横浜中心街の都市構造は基本的に、この大岡川の右岸にある台地の下の平地に町が拓けている

 

 

 

 

 

 

 

 

一方、大岡川や、その他の小河川が造り出した丘陵が(地図でいう)上にあり、その丘陵の谷戸に、今回訪ねる予定の町がある

 

横浜太田郵便局があるグネグネ曲がった通りが谷戸の中心部で、通りは丘陵のはざまを屈曲しながら、保土ヶ谷との境の少し高い丘陵まで続く

 

 

この谷戸には明治初期頃から貧民が集まり、屑拾いや日雇い労働など横浜の底辺重労働を担うようになり、やがてそれは日本最大の貧民窟、要するに「スラム街」を形成し「乞食谷戸」と呼ばれるようになった

 

この問題には政府も頭を悩ませて「不良住宅地区改良法」に取り組み、木造モルタル建築の同潤会アパートを建設した。また既存の長屋などに貧民を集めスラムの一掃をはかった

 

 

もっとも、そういった余計なお世話を嫌う住民も多く、中村町などの周辺の町に散らばっただけという厳しい意見もある

 

いずれにせよ、そうした貧民窟は米軍の横浜大空襲によって灰塵に帰してしまい、ある意味、政府には都合のよい状況になった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スラム街は壊滅したが底辺労働者が一掃されたわけではなく、戦後になると多くのバラックが建ち並び戦前と同様に、屑拾いや日雇い労働者が集まる状況に、さほどの変化はなかったものと思われる

 

その名残は現在も路地裏の一部に残り、自転車すら入るのが厳しい極細路地の奥には、バラックの雰囲気を残した建物が散見された

 

 

しかし、自治体にとって「汚点」となるそうした物件を「なかったこと」にするのがお家芸の横浜市の不断の努力のおかげで、その九分九厘は地上から消し去られてしまったのは、簡易な売春宿ちょんの間で知られた黄金町界隈と同様である

 

 

もちろん、そうした不良住宅地を一掃するという方針自体に異を唱えるつもりはないが、それを「なかったことにする」横浜市の方針には、断固異議を唱えたい

 

たとえそれが、どんな恥ずべき(と、良識のあるひとが勝手に決めつけた)歴史であっても、歴史は歴史で、その事実を「なかったことにする」のは、ナチスドイツが行った焚書と何ら変わることはない行為だからだ

 

 

 

 

 

 

 

 

という義憤は、本編の内容とはあまり関わりがないので、さっさと先にすすむ

 

かつてはバラックが並んでいた細い路地にも、今はこのように無害な建て売り住宅が並び、近年になってここに移住してきた新しい住民などは、ここがかつてのスラム街だったなどとは知らないひとも多いという

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カラフルな洗濯ハンガーを大谷石の塀にぶら下げた建て売り住宅の隣には、鮮やかな黄色い軒先テントが、なかばもじゃ化している建物があった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このような派手な軒先テントがあるということは、何らかの商売をしていたに違いないけれど、庭先にはガラクタが積まれ、そして建物のほとんどの部分は、蔦に覆われ尽くされようとしていた

 

 

 

 

 

 

 

 

いったいどんな商売をしていたのだろう? などと思いを馳せているそばから、次々と女子高生が通過してゆく

 

どうやらこの先に女子高があるようだ

 

女子高生のおかげで、あまり大っぴらにカメラを向けていると変態として通報されそうなので、このあたりの写真は、培ったストリートスナップテクニックで、相手にカメラを意識させない腰だめノーファインダーで撮影した

 

 

帰宅して写りをたしかめてみると、まあ当然だが失敗した写真はほとんどなく、どれも普通に写っていた

 

 

と、初回はほとんど背景説明だけで終わったが……続く

 

 

 

 

 

†PIAS†