🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶
🍶 ⑥往時の宿場町の敷地を実感する
東京近郊にあるかつての宿場町には、当ブログにて取り上げてきたように、たくさんの商家や屋敷が残されているが、そのほとんどは、江戸時代と同じ規模ではなくなってしまっている
僕も記事で“鰻の寝床のような”という表現をするが、これはあくまでも“たとえ”に過ぎず、実際に鰻のようには細長くはない
大きな商家などは間口が十二間もあったりするから、その土地を鰻の寝床のように見えるようにするには、奥行きは200メートルぐらいないと釣り合いがとれず、今のご時世、奥行きが200メートルなどという土地の家を維持するのは、ほぼ不可能だ
唯一の例外と言えるのは、五日市街道の砂川村名主の砂川家で、こちらは東京都内にも関わらず、往時の敷地の八割ぐらい残っているのではないかというぐらい、もはや「家」とか「屋敷」のレベルではなく、高校のひとつや、団地ぐらいスッポリ収まってしまう広大な敷地である
(写真は再掲載)
さて、前回の記事の最後に紹介した安政年間創業の「田中屋酒店」であるが、ご覧のように間口の広い店舗の横にはブリキ張りの2棟の土蔵があり、どう見ても間口十二間はありそうだ
ということは、江戸時代のままの土地が残っているとするなら、奥行きは少なくとも百メートルはないと、釣り合いがとれず「鰻の寝床」というのは、いささか大袈裟な表現ということになる
この錆び模様がカッコいいこちらの土蔵を観察すると、後ろ側に、もう1棟の土蔵が縦に並んでいるのが見える
土蔵にしては、やけに開口部が多いところが、ちょっと気になる
また、よくよく考えるといくら大店とはいえ、果たして「酒店」に、こんなたくさんの収納スペースが必要とは思えない
この時点で、僕は間違いなく昔は「酒の販売店」ではなく「造り酒屋」であろうと推理したが、タブレットを開いてググってみると、やはり昔は造り酒屋だったことが判明した
「だよなあ。単なる酒屋なら、こんな大袈裟な土蔵はいらないし、たぶん醸造蔵とか貯蔵蔵なんかがたくさんあったんだろうなあ……」
などと独りごちながら、土蔵の横に足を踏み入れると
おっ、まだ続いてるね。後ろに続くのは醸造蔵かな? たぶんここは、かつての搬入、搬出口だったんだろうな
えっ、黒板塀まだ続いてるんですけど(奥に見えている通りが原市大通り)。まあ、ここまで来たんだから、最後まで見にゆくか……
と、思って黒板塀の先にすすむと、板塀はなくなり途中から生垣にかわり
なんと、原市の宿場の入り口で交差していた県道まで続いた
県道が敷設される以前は、さらに30メートルぐらい先まで敷地があったはずだ。まさに鰻の寝床!
なるほど。これが当時の宿場町の大店の敷地の広さか。と、身を持って実感することができた。これって絶対、中央区とか台東区にある小学校より広いよね
田中屋から先は急に商家が少なくなり、それまでの様子とは異なり並んでいる建物も、密集しているとは言いがたくなってきた
それでもまだ戦前物件と思われる建物が、あちこちに見受けられるので、このあたりが往時の宿場町の外れであろう
そのなかても、こちらは妙に気になった物件である
それまでは武州では平均的な平入の建物が多かったが、この建物は妻入で、一般的な住宅だったとは思えない大袈裟な玄関がついている
しかし、商家という感じではないし、もしかしたら昔は料理屋だったのだろうか?
などと、埒もないことを考えていたら、並んでいる建物の密度がさらにスカスカになり、商家よりも古い住宅が目につくようになってきた
今までの経験上、こういう雰囲気に変わったら、宿場町の範囲は終わりだということだ
しかし、これも今までの経験上、このような雰囲気になっても1棟ぐらいは古い商家があったりするから、念のためもう少し先まで行くことにした
続く
†PIAS†
🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶