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🔧 ④さらなる広庭看板建築と土蔵造り
前回の記事で、原市大通りにある商店街の建物は、かつて店の前にあった広場で市が立ったことから「広庭」というスペースがあり、その部分に後年店舗なり住居なりが増築されている
というようなことを書いた。もちろん、そのスペースを完全に潰して、土地ギリギリまで建物を建ててしまった箇所も多く見受けられるが、このような地割というのは、年月が経過しても残っていることが多い
暗渠の場合は法的に水路敷なので、建造物を建てることが出来ないという縛りがあるが、こちらの場合は長年の習慣というか、“そこには建造物を建ててはいけない”という、無意識の刷り込みからきているのではないだろうか?
こちらは元々は平入構造の出桁造り商家の前にあった広庭に、平屋の商家を建ててしまったのに、後に廃業してそれを住居仕様に改装した挙げ句、ブロック塀まで追加した……
という、物語すら浮かぶような物件で、現地でしばらく見とれてしまった
原市の町で、広庭のほかに気になったのは、もはや埼玉県の宿場町シリーズではお馴染みになってしまった
更地であろう。廃業しているのか、あるいはたまたま定休日なのかはつまびらかではないが、茶舗と思われるこちらの「田島園」という看板建築は、両隣が見事に更地にされてしまっており、なんとも寒々しい姿になっていた
原市の町も街道筋の通例にしたがい、鰻の寝床状の地割であることが一目瞭然になっているが、まったく嬉しくない眺めである
こちらの昭和40年代的なおもむきの錆び錆び物件、というか廃墟
写真を見ればわかるとおり道路の寸前、土地ギリギリまで建物が建てられている……が
角度を変えて撮影すると鉄工所か町工場のような、錆び錆びボロボロの建物の後ろには、見るからに戦前型の平屋がくっついていた
ということは、こちらは戦前は平屋の商家だった建物の広庭に、戦後になってから、このような町工場のような建物を増築したものと思われる
それにしても、後ろの戦前型の建物は、町工場的な建物よりも明らかに古いはずなのに、後に造られた安普請の戦後に建てられた部分のほうが、大きなダメージを受けている
以前、建物というのは素材の寿命と比例する。という話を聞いたことがある
屋久杉の例を持ち出すまでもなく、樹齢千年を越える樹木が存在しているように、法隆寺は1300年もその姿を保っている。このような建物には寿命が短い金属の釘は使用されていない
その一方、鉄筋コンクリートで建てられた第一期の高層ビルは、まだ百年も経過していないのに、寿命が来て次々に解体されている
どちらが地球の環境にとってローインパクトなのかは、言うまでもないだろう
もっとも戦後の建物は、家電製品のように早いとこ寿命が来ないと買い換え需要が生まれないので、長持ちしてしまっては目先の利益を最優先するヤカラに都合が悪いので、これからも質の低い建物が粗製乱造されることは間違いないが
などと話が横道に逸れてしまっているうちに、ちょっと不可解な物件を見つけた
こちらの物件はアルミ製の真新しい門の奥に、立派な土蔵などがズラリと並び、丹精こめた植栽が目を惹くが、土蔵の主体であるはずの店舗がどこにも見当たらない
最初にこれを見たときには思考が混乱してしまったが、よくよく考えると、いくら原市が市場町だからといって、関東平野の穀倉地帯だった武州のこのあたりに農家がなかったはずがなく、おそらくこの家は商家ではなく農家だったのだろう
というのも武州の農家の敷地の入り口には、たいてい土蔵か納屋があるからで、だとすると少しも不自然ではないからだ
と、しばらく考えて結論を出したところで、その斜め向かい側にも不可解な物件を見つけた
このアングルから撮影すると、どこにでもある住宅街の風景にしか見えないが、回りこんで撮影すると……
植栽でほとんど隠れてしまっているが、まごうことなき土蔵造りの立派な商家そのものである
勘のよい読者諸兄は、すでにお気付きのことと思うが、そう、この土蔵造りの商家は、広庭の部分に本当の庭を、そして生垣と門を構えることによって、見事に住宅に化けてしまったのだ
ほぼ魔改造なしで住宅に化けることができたのは、すべて広庭というスペースがあってこそだろう
うーん、原市。やはり興味が尽きない楽しい町だなあ。といったところで……続く
†PIAS†
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