🌱🌱🌱🌱
🌱 ⑧洋館と土蔵が残された町
日光道中から平行する足立越谷線に入るとすぐに、やけにおもむきのある細い道があった。その道にはヤレた雰囲気の戦後型の看板建築などがあり、いかにも旧道の風情が漂っていた
帰宅途中の車内で検索したら、やはり赤山街道という旧道だったことが判明したが、この散策時はまだ気がついていない
足立越谷線から日光道中には、この旧道沿いを戻ることにした(戻るといってもわずか数十メートルだが)
前回の記事に写真を掲載した布団屋の向かいには、3階建ての書店の倉庫があった。石膏ボードの外壁の3階建てというのは、あまり見たことがなかったので、思わず撮影する
足立越谷線をわたって、そのまま細い道(赤山街道)をすむと、右前方に、こんなものが目に入った
「ムムム、これはなんだ?」
まるで大田区の呑川沿いの町工場か、三里塚闘争の砦のようだが、シュプレヒコールを記したアジ看板はないし、ヘルメットに白いタオルを巻いた左翼活動家も見当たらない(あまりに古いギャグなので、理解不能?)
さっそく正面に回りこんでみると
「南部理容所」という、渋いたたずまいの床屋だった。越谷宿に入って2軒めのレトロな床屋である
よく見ると袖看板には「南部床」と記されている。ええっ、もしかして江戸時代から続く床屋?
これは赤山街道を歩いたブロ友さんも撮影していた物件だが、看板のサインポールと同じ動脈の赤と静脈の青の縁取りがおもしろい。隣は戦後型看板建築の古民家カフェだが、床屋に夢中になってしまい撮影し忘れた
この床屋が日光道中と赤山街道の交差点で、ここで日光道中に戻ろうと思ったのだが「田中屋呉服店」の横に続く赤山街道を見ると……
どこまでも続くかのような黒板塀が!
途中に冠木門などがあり、そこからさらにすすむと土蔵が残っていた。しかし、敷地のなかには屋敷などは見当たらず、低層のマンションが建っている
調べてみると、やはりかつてはここに豪商の屋敷があったが、前回の記事で危惧していたとおり、莫大な額の相続税が払えなかったのか、売却されてマンションになってしまったようだ
僕の知人に、某県でも有数の大地主の息子がいて、普通の建て売り住宅より大きな薬医門を構えた気が遠くなるような豪邸に住んでいる
そいつの兄貴は医者で、そいつも都内の一等地で店を経営していて、一般的なサラリーマンより数倍稼いでいるが、兄弟の財力では相続税が払えず(二桁億円だ)、親父が死ぬ前から売却が決まっていると話していた
まあ、そんな生まれたときから勝ち組のやつらの人生はどうでもよいが(笑)、薬医門と屋敷林は残ってほしいなあ。以上余談
こちらの豪商屋敷は、敷地全部を潰してしまわずに、黒板塀と土蔵、冠木門を残したのは見識ある行為と言えよう。マンションの開発で住民の意向を無視して、天明の森を伐採した程度の低い東急とは大違いである
それにしても、日本の宿場町の現状の厳しさを象徴するような光景である
ちょっと先まで行ってみたが赤山街道沿いには、こんなバラック的な平屋があったぐらいで、ほかにはとくになにもない……かと思いきや
赤山街道と日光道中のあいだには、こんなに土蔵が残っていた
どの土蔵にも母屋は残されておらず、鰻の寝床のような広大な土地は維持できず、細かく売却されて小さな家が並んでいる
真ん中の写真の土蔵は、町作りのNPO法人の拠点として、そしていちばん下の写真の土蔵は
かつての越谷宿を代表する豪商の「油長」の3棟あった土蔵のひとつで、油長が廃業して土地を売却し、そこを住宅街として開発した会社が、わざわざ曳き家して残したものだそうだ
こうしたことから、越谷が宿場町としての歴史を大切にしていることがわかるが、土蔵を残したぐらいでは、残念ながら風車に立ち向かうドン・キホーテのようなもので、古い建物は、次々と解体されて、宿場町の面影は薄れてしまう一方である
川や用水路を埋め立てても暗渠として、その痕跡が残るように、越谷宿の町並みも地割にだけは、はっきりと宿場町だったころの名残を見てとることができる
しかし、川越のように建物が残っていないので、残念ながら観光客は目もくれないであろう。川越が蔵造りの町並みのおかげで、埼玉県屈指の観光地になったのとは大違いである
あっ、この書店、さっき見た3階建ての倉庫の店ではないか! あれだけ大きな倉庫を持っている町の本屋というのも珍しい
などと感心していたら、いきなり今回の記事で3回目のクライマックスが目に飛びこんできた
昭和初期に建造された木造下見板張りの洋館「横田診療所」である
うーん、素晴らしい!
洋館は、たいてい通りに面して屋根の三角の部分が見える妻入構造になっているが、こちらは土蔵造りの商家のように平入になっていた。次回はこの洋館を紹介しよう
†PIAS†
🌱🌱🌱🌱