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2回台風が来たと思ったら、いきなり冬の到来にうんざりだ。いったい秋はどこに消えてしまったのだろうか?

 

という前おきはともかく、前回の続きである

 

 

南武沿線道路から、自転車1台がギリギリ通れる住宅街の細い隙間を抜けると、ほとんど通行人すら見かけない場所に、踏切があり、その周辺には、なぜか戦前に造られたものと思わしき古い建物が固まっていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ご覧のように、車1台がやっとといった狭い道路で、写真の手前側には踏切があるので、自転車かバイクでなければ通り抜けは不可能である

 

このような場所なのにも関わらず、この狭い路地には、昭和初期のものと思われる建物が集中している

 

 

 

 

 

 

 

 

 

踏切をわたって最初に目につくのは、この旅館か料亭のような立派な建物だ。そして、この家の隣には……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平屋ではあるが、典型的な看板建築の様式を備えた商家があった

 

店舗の部分は、ずいぶん前に封鎖されてしまったような感じで、看板の部分が艶消しの黒で塗装されており、どんな商売をしていたのかは想像がつかない

 

 

看板の模様は、煉瓦や石造りを模した看板建築にはよくある装飾が施され、1階の壁面にも煉瓦を模した銅板が張られており、かなり凝った造りだということがわかる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんとなく南国を想わせる植栽も洒落ているが、放置されてから久しいことは明らかだろう

 

そして、この看板建築の隣に建っているのは……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらも平屋だが下見板張りの立派な洋館の造りの建物だ

 

よく見ると出窓の窓の下の部分に、不自然な縦の線があることがわかる。この部分は、以前は入り口だった、つまり、こちらの建物も商家だったのではないだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

窓枠は木製の繊細なデザインで、細部にわたり非常に凝った細工が施されており、この建物が戦後の物資が乏しい時代や、その後の安直な工法が主流の時代のものではないことを物語る

 

窓の横にある装飾に注目してほしい。これはヨーロッパなどで見かける店の看板を掲げるものではないだろうか?

 

 

だとすれば、やはりこの建物も、元は商家だということになる。それにしても洒落た建物である。使用しないのならば、すぐ近所には日本民家園があるのだから、移築保存してほしいぐらいだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やはり放置されてから長い時間を経ているようで、残念なことに、建物の横の窓の装飾が腐蝕してしまっていた。もったいない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

窓の下には防火用水と記されたものが設置されており、防火の文字は右から読ませる旧仮名使いのものである

 

これらのことからこの建物は、やはり戦前に造られたと推察できるが、それでは、なぜこのような街道も駅もない場所に、戦前の商家や家があるのだろうか?

 

 

じつは、そのヒントは何度も目にしているのに、文献にあたって初めて気が付いた

 

間抜けな話ではあるが、現況を鑑みると、周囲のさびれた様子を見て、その可能性を無意識に排除していたのである

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この洋館の隣は、現在空き地にされ駐車場になっている

 

駐車場の左手には、踏切の反対側にあった家と同じような入母屋造りの屋根を持つ建物が目につくが、キーポイントは、洋館の後ろに見えている屋上に「神明國上教」という文字が掲げられた建物である

 

 

この写真の僕の立ち位置から後ろを振り向くと、こんな建物が目に入る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕はこの大きな建物を見て、てっきりどこにでもある少し大きな神社仏閣のたぐいだと無意識に、視界から排除していたのだ

 

 

二ヶ領用水に面したこの建物の正面に回りこむと……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やはり神社仏閣にしか見えないが、この建物は大正時代に設立された神明國上教という新興宗教の本部だったのだ

 

新興宗教というと、えげつなくて怪しげなものを想像しがちだが、じつは、幕末から昭和初期にかけては、政情不安から数多くの新興宗教が勃興したという歴史があった

 

 

幕末三大宗教として、現在も多くの信徒を持つ天理教を筆頭に、金光教、黒住教が知られているが、川崎市においても、隣駅の登戸で興った丸山教、そしてこの神明國上教会は、かなりの勢力を誇った新興宗教であった

 

この時代の新興宗教の特徴は、現在主流の様々な宗教から教義を取り入れたようなものや、怪しげなカルトではなく、神道、もしくは仏教を、一人のカリスマ(このあたりが、カルトと言えないこともないが……)が独自の解釈をしたものが主流で、丸山教は富士信仰、そして神明國上教は、密教、神道が教義の基本になっていた

 

 

丸山教は、明治期に莫大な勢力を持ち、信徒数は138万人を誇り、その勢力は、明治政府がでっち上げた国家神道を脅かすほどに拡大し、自由民権運動と結びつくことを恐れた明治政府によって、出口王仁三郎を頂く大本教とともに、大弾圧を受けることになる

 

 

神明國上教は、そこまでの巨大な団体にはならなかったが、昭和初期には大規模な宗教に発展し、この教会に大勢の信徒が詰めかけ、参拝客や修行者の利便をはかるため、前回写真を掲載した踏切の横あたりに、地元の有志が土地を寄贈し「宿河原不動駅」が造られた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この写真の左側、セイタカアワダチソウの花が咲いている場所の奥あたりに、南武鉄道「宿河原不動駅」があった

 

そう、つまり、これらの昭和初期の商家は今は存在しない、神明國上教会の門前町。そして、宿河原不動駅の駅前商店街の名残だったのである

 

 

次回は、さらに周囲を散策してみよう

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

 

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