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もう10月も半ばだというのに、連日ファッキンな暑さが続いている

 

昨日も秋というよりは夏の陽気で、爽やかさのカケラもないべとべとした鬱陶しい空気が漂い、デニムシャツなんか着なければよかった。と、激しく悔やんだ

 

しかし、この取材のときは、鬱陶しいというレベルは完全に通り越して、夏そのものといった気候に、美しい同行者がいなければ、途中で「や~めた!」と引き返していたかもしれない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Jさんが撮影した僕の後姿。おそらくカバンからカメラを取り出した瞬間で、シャツがめくれ上がってしまっている。よりによって、こんな瞬間を撮影しなくても……

 

 

ところで、冒頭の写真に、なにやら鉄塔のようなものが写っているが、これは電波や電線用の鉄塔ではなく温泉を汲み出すための櫓である

 

なぜこのような場所に温泉櫓があるかというと、どうやらこの櫓で汲み出した温泉の湯を販売しているらしい。しかし、わざわざこんな場所まで温泉の湯を買いにくる物好きがいるのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とはいえ僕たちも、かなりの新選組マニアでなければ、名前も知らないであろう斉藤一諾斎の顕彰碑を見に来ているのだから、やはり物好きと言われてもしかたないだろう

 

 

周辺は、すっかり開発されてしまい、おまけに大塚観音を押し潰す勢いで、帝京大学の校舎が頭上を圧迫しているが……

 

そうした目障りなものを、無理やり脳内画像処理で消去すると、あちこちに昔は長閑であっただろう風景の名残が観て取れる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大塚観音から西の方角を見ると、そちらにも遠くに高いビルが見えた

 

こちらの方角は日野市程久保……多摩動物公園ぐらいしかない田舎なので、なんの建物だろうか? と、疑問に思い帰宅後調べてみると、どうやら明星大学のキャンパスのようだ

 

 

ところで、前回の記事において「みょうじょう」なのか「めいせい」なのかわからない。と書いたが、大学のホムペを見たら「MEISEI」というのが正解だった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これが大塚観音こと「大塚御手観音」の参道と本堂である

 

山の周辺は悲惨なことになってしまったが、さすがに境内には、まだ静かで荘厳な空気が漂っていた

 

 

このズラリと並んだ真っ赤な幟の奥の右側に、斉藤一諾斎の顕彰碑がある

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらが斉藤一諾斎の顕彰碑だ

 

この斉藤一諾斎というひとは、相当かわった人物で、新選組隊士でも最高齢に近い上に、入隊した経緯がまたかわっている。いちいち書くのがめんどくさいので、ウィキペディアから引用すると……

 

 

 

 

 

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斎藤 一諾斎(さいとう いちだくさい、文化10年(1813年) - 明治7年(1874年)12月18日)は、幕末期の新選組隊士。名は秀全。号を一諾斎。

 

生涯編集

武蔵国江戸出身。幕臣の家に生まれる。文化15年(1818年)6歳の頃、浅草今戸の潮江院にて出家。駒込吉祥寺の僧となり、潮江院・慶養寺(今戸)・東地院(甲斐国山梨郡)・全福寺(同国都留郡強瀬村)の住職を歴任した。

慶応4年(1868年)3月に甲陽鎮撫隊(新選組)が甲州へ訪れると、56歳にして入隊。入隊を勧めた隊士に快く応じたといわれる(慶応3年の土方歳三による隊士募集で既に入隊していたという説もある)。甲州勝沼の戦いに敗れた後は、土方と共に宇都宮会津への転戦。蝦夷地には渡らずに仙台で新政府軍に降伏した。戦場を脱する際、土方より餞別30両を渡され、その気遣いにいたく感動したという。

釈放後、多摩郡中野村(現、八王子市由木中野)に定住して学校を設立。土方家、近藤家、佐藤家と深い交流があり、明治7年(1874年)に斎藤が死去すると、同家らによって八王子市大塚観音堂に顕彰碑が建てられた。享年62。墓所は八王子市堀之内保井寺

 

 

 

 

ウィキでは触れられていないが、このとき仙台で新選組を一緒に離れた松本捨助という府中本宿出身の隊士がいて、そのとき歳三は、捨助には10両と、渡す金額に差をつけている

 

おそらく府中宿の裕福な家庭出身の捨助は、身寄りのない一諾斎と違い、頼るひとがいたからであろう。歳三は鬼と呼ばれたが、このような細かい配慮のできる人物であった

 

 

この松本捨助もまたかわった人物で、武州を代表する渡世人・小金井小次郎の世話になったりしている。明治8年には博打で負けた腹いせに暴れて捕縛されたりと、かなりのやんちゃ者なので、とうてい百姓などは勤まらなかったに違いない

 

捨助は、新選組隊士・井上源三郎の姪と結婚して牛込に居を構えるが、生来のやんちゃはおさまらず、名古屋などを転々としたあげく、八王子で生涯を閉じた。跡継ぎのいない松本家は、歳三の甥が養子に入って継いでいる

 

 

 

 

 

 

 

 

この顕彰碑を見ると、佐藤俊宣(彦五郎の息子)、土方隼人(土方家当主の名)、近藤祐五郎(近藤勇の婿養子。祐は勇の誤記で正しくは勇五郎)と、新選組関係の名前があり、明治以降も交流があったことがわかる

 

 

また野津田・石坂儀右ヱ門というのは、石坂昌孝、吉野泰造、村野常衛門らと自由民権運動に参画している

 

ちなみに、石坂昌孝は、新選組の有力な支援者小野路村の小島為政とは義兄弟で、自宅に天然理心流の道場を構えていた

 

 

一諾斎は、仙台から多摩に帰ると、しばらく佐藤彦五郎の世話になっていたが、その後、中野(大塚の隣村)に小学校を開設し、教師として生涯を終えた。その教え子たちも自由民権運動に参加している

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

顕彰碑を撮影するJさん。なんだか嬉しそう

 

佐藤彦五郎資料館の前で落ち合い、蕎麦屋「ちばい」、石田寺、そして斉藤一諾斎の顕彰碑と、新選組を訪ねる変則的なぶらり旅は、これにて終了である

 

 

 

 

 

 

 

 

すっかり陽が傾き、近くの保井寺に一諾斎の墓所を訪ねている余裕もなく、あとはお茶でも……

 

と、思ってもこの山のなかでは、カフェなどあろうはずもなく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あっ、サンリオピューロランドは撮影しただけで、もちろん入ってませんよ

 

 

多摩モノレールで多摩センター駅まで移動して、都内でも有数の売場面積を誇る丸善書店などを冷やかしたあと、パルテノン通りのカフェで話していたら、あたりはすっかり暗くなっていた

 

なぜ多摩センター駅かというと、じつはJさんは、僕の住む町のすぐ隣町に住んでいるので、使用する沿線は違っても帰る方向は一緒なのだ

 

 

ということで、今回は珍しくデートの記事をアップした。次回からは、またいつもの孤独なぶらり旅である

 

Jさん。お誘いいただきありがとうございます。おかげで楽しいひとときをすごせました

 

 

 

 

 

《日野から多摩センターへ》おしまい

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

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