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前回は、阿豆佐味天神社まで紹介したが、そのすぐに先「たましん」の駐車場の裏側に、こんな古民家があった
この家は、阿豆佐味天神社の神官だった宮崎家で、幕末から明治にかけて、寺子屋などを開き、村の教育に尽くしたそうだ
明らかに[茅葺き→トタン]の多摩地区デフォルトな建物で、近くに行って撮影したかったが、ちょっと奥まった場所にあり、なんとなく気後れして、そのまま後にした
ここから今回の最大の目的地、砂川源五右衛門の「砂川家」は、目と鼻の先である
その砂川家は、玉川上水から、ほぼ自家用の分水を引いており、それが街道の脇を流れていた
右側の流れが分水である。多摩川の水なので、国立で見たママ下湧水と比べると、さすがに水はやや汚い
――なんてことは、どうでもよく、ショックだったのは、八王子ラーメンの名店『三番亭』が開いていることだ
じつは、今回出かける前に『三番亭』の前を通るので、食べログで定休日を調べ「なんだ、月曜日定休日かよ!」と、泣く泣くあきらめたのに、祝日のため“臨時開店”していたようだ
食べたかったが、2時間半前にカレーを食べたばかりで、ラーメンが入る余地がない
こんなことなら朝食抜きにしておけば……と、思っても後の祭り(←今回3回目)
気をとり直して……
この写真の奥に見える鬱蒼とした屋敷林が砂川家である
砂川家の斜め前には、阿豆佐味天神社と同じように、新田を開発するにあたり勧進した、流泉寺という寺があった
街道を歩きながらチラ見すると、駐車場の奥に立派な山門のある、見るからに由緒正しそうな寺ではあるが、基本的に神社仏閣には興味がないので、スルーして通りすぎようとしたとき
「ムムム、今、なんか聞き捨てならないものを見た気がするぞ
(←日本語になっていないが、正直な気持ちである)!」
街道の反対側だったので、僕の見間違いかもしれない……でも気になる
しかたなく激しい交通量の五日市街道を横切って、流泉寺まで行ってみると……
ななな、なんと、長屋門ではないか!
しかも前回見た「なんちゃって長屋門」ではなく、本物の長屋門である。おそらく江戸時代のものではないが、ちゃんとした長屋門であることには変わりはない
事前にチェックした、街道歩きのブログなどで、誰ひとり取りあげていなかったので、危うく見逃すところだったが、逆に事前知識がないぶん、嬉しい驚きである
記念にもう1枚。全面が漆喰なのが珍しい
街道からかなり引っ込み、しかも通用門だから目立たず、危うく見逃すところだった
長屋門でテンションが上がったところで、いよいよ砂川家に行くが……これが、予想をはるかに上回る凄まじい屋敷だった
五日市街道に面した砂川家の生垣。赤い花をつけているので山茶花だろう
足で測ったところ、軽く120メートルは続いていた。しかも、その区間すべての生垣が、完璧に手入れされている
屋敷の奥行き
もはや測る気にもならなかった
都心ではないにしろ、これが都内の個人の家なのか? 大学とか総合病院、公園が楽に入る敷地面積で、何坪とかそういうレベルを、はるか彼方に超越している
これだけの距離の生垣を完璧に手入れするには、いったいどれほどの維持費が必要なのか、想像もつかない
(少なくとも一般的な労働者の年収では、確実に一桁足りない)
多摩郡の名主の家は、かなり見てきたが、規模ナンバーワン確定である
門までのアプローチ。もはや言葉もない。手入れは完璧。一点、非の打ち所もない
なにも知らないで見たら、庭園とか高級旅館の入り口のようだが、個人の家である
砂川家は、明治までは村野姓を名乗っていた。中世武蔵七党の村山党の流れで、多摩郡にはよくあるパターンの、もともと武田家の家臣であった
戦国末期、青梅街道の岸村(現在の東村山付近)に帰農したが、慶長年間に、荒れ地だった砂川に、新田を開拓する許可を幕府に願い出た
しかし、当時は玉川上水の開削前で、賛同するものがなかなかあらわれず、新田開拓は、享保のころはじまったようだ
玉川上水が砂川を通るまでは、まいまいず井戸や、狭山を源とする残堀川が水源だったので、砂川の中心地は、川が近い砂川三番あたりだった
(ちなみに、砂川の地名は、砂川屋敷の裏手の丘を水源に流れていた、砂川という小川に由来する、と言われている)
このあたりの経緯は、青梅の新町宿とよく似ている
まさに「和」の世界。なぜか新しいバイクが停まっていた
まあ、これもミスマッチ。悪くはないが、完璧にするならバイクの選択に、もうひとつ工夫がほしいところだ
たとえば、こんな雰囲気
バイクは、戦前の英国製。トライアンフなんて安物はダメ。最低ヴェロセットかノートン。ダグラスやラッジなんかもいいが、できればヴィンセントのブラックシャドウなんかだったら最高
ネットで拾ってきた、ヴィンセント・ブラックシャドウの画像
乗るときのファッションもこだわりたい。ハンツマンかヘンリープールでビスポークしたツイードのジャケットに、ニッカボッカ。ブーツはヘンリー・マックスウェル(今はフォスター&サンだが……)で乗馬用をビスポーク
ターンブル&アッサーで誂えた、タターソール・シャツに、ハンチングは、英国王室御用達のベイツなんてどうだろう?
もちろんコートは、フロントに斜めのポケットがついた、1930年代のマッキントッシュ。ポケットからチャラタンのパイプをとり出して一服したら、最高に絵になるなあ……
などと無意味に、妄想がふくらんだので戻す。あ、ついでに車は、ベントレーやブガッティだと白州次郎とかぶるので、ノーブルなイスパノスイザのH-6Cで
砂川家の門前を流れていた砂川堀の分水
この分水は、砂川家の真裏(といっても数百メートル先だが)を流れている玉川上水から来ている。その分岐点を見に行った
(そのとき写したのが、先ほどの屋敷の奥行きの写真だ)
往時、砂川家の裏は田んぼで、それが玉川上水まで続いていたが、現在は都の水道施設と野球場、公園になっていた
――続く
†PIAS†
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前回は、阿豆佐味天神社まで紹介したが、そのすぐに先「たましん」の駐車場の裏側に、こんな古民家があった
この家は、阿豆佐味天神社の神官だった宮崎家で、幕末から明治にかけて、寺子屋などを開き、村の教育に尽くしたそうだ
明らかに[茅葺き→トタン]の多摩地区デフォルトな建物で、近くに行って撮影したかったが、ちょっと奥まった場所にあり、なんとなく気後れして、そのまま後にした
ここから今回の最大の目的地、砂川源五右衛門の「砂川家」は、目と鼻の先である
その砂川家は、玉川上水から、ほぼ自家用の分水を引いており、それが街道の脇を流れていた
右側の流れが分水である。多摩川の水なので、国立で見たママ下湧水と比べると、さすがに水はやや汚い
――なんてことは、どうでもよく、ショックだったのは、八王子ラーメンの名店『三番亭』が開いていることだ
じつは、今回出かける前に『三番亭』の前を通るので、食べログで定休日を調べ「なんだ、月曜日定休日かよ!」と、泣く泣くあきらめたのに、祝日のため“臨時開店”していたようだ
食べたかったが、2時間半前にカレーを食べたばかりで、ラーメンが入る余地がない
こんなことなら朝食抜きにしておけば……と、思っても後の祭り(←今回3回目)
気をとり直して……
この写真の奥に見える鬱蒼とした屋敷林が砂川家である
砂川家の斜め前には、阿豆佐味天神社と同じように、新田を開発するにあたり勧進した、流泉寺という寺があった
街道を歩きながらチラ見すると、駐車場の奥に立派な山門のある、見るからに由緒正しそうな寺ではあるが、基本的に神社仏閣には興味がないので、スルーして通りすぎようとしたとき
「ムムム、今、なんか聞き捨てならないものを見た気がするぞ
(←日本語になっていないが、正直な気持ちである)!」
街道の反対側だったので、僕の見間違いかもしれない……でも気になる
しかたなく激しい交通量の五日市街道を横切って、流泉寺まで行ってみると……
ななな、なんと、長屋門ではないか!
しかも前回見た「なんちゃって長屋門」ではなく、本物の長屋門である。おそらく江戸時代のものではないが、ちゃんとした長屋門であることには変わりはない
事前にチェックした、街道歩きのブログなどで、誰ひとり取りあげていなかったので、危うく見逃すところだったが、逆に事前知識がないぶん、嬉しい驚きである
記念にもう1枚。全面が漆喰なのが珍しい
街道からかなり引っ込み、しかも通用門だから目立たず、危うく見逃すところだった
長屋門でテンションが上がったところで、いよいよ砂川家に行くが……これが、予想をはるかに上回る凄まじい屋敷だった
五日市街道に面した砂川家の生垣。赤い花をつけているので山茶花だろう
足で測ったところ、軽く120メートルは続いていた。しかも、その区間すべての生垣が、完璧に手入れされている
屋敷の奥行き
もはや測る気にもならなかった
都心ではないにしろ、これが都内の個人の家なのか? 大学とか総合病院、公園が楽に入る敷地面積で、何坪とかそういうレベルを、はるか彼方に超越している
これだけの距離の生垣を完璧に手入れするには、いったいどれほどの維持費が必要なのか、想像もつかない
(少なくとも一般的な労働者の年収では、確実に一桁足りない)
多摩郡の名主の家は、かなり見てきたが、規模ナンバーワン確定である
門までのアプローチ。もはや言葉もない。手入れは完璧。一点、非の打ち所もない
なにも知らないで見たら、庭園とか高級旅館の入り口のようだが、個人の家である
砂川家は、明治までは村野姓を名乗っていた。中世武蔵七党の村山党の流れで、多摩郡にはよくあるパターンの、もともと武田家の家臣であった
戦国末期、青梅街道の岸村(現在の東村山付近)に帰農したが、慶長年間に、荒れ地だった砂川に、新田を開拓する許可を幕府に願い出た
しかし、当時は玉川上水の開削前で、賛同するものがなかなかあらわれず、新田開拓は、享保のころはじまったようだ
玉川上水が砂川を通るまでは、まいまいず井戸や、狭山を源とする残堀川が水源だったので、砂川の中心地は、川が近い砂川三番あたりだった
(ちなみに、砂川の地名は、砂川屋敷の裏手の丘を水源に流れていた、砂川という小川に由来する、と言われている)
このあたりの経緯は、青梅の新町宿とよく似ている
まさに「和」の世界。なぜか新しいバイクが停まっていた
まあ、これもミスマッチ。悪くはないが、完璧にするならバイクの選択に、もうひとつ工夫がほしいところだ
たとえば、こんな雰囲気
バイクは、戦前の英国製。トライアンフなんて安物はダメ。最低ヴェロセットかノートン。ダグラスやラッジなんかもいいが、できればヴィンセントのブラックシャドウなんかだったら最高
ネットで拾ってきた、ヴィンセント・ブラックシャドウの画像
乗るときのファッションもこだわりたい。ハンツマンかヘンリープールでビスポークしたツイードのジャケットに、ニッカボッカ。ブーツはヘンリー・マックスウェル(今はフォスター&サンだが……)で乗馬用をビスポーク
ターンブル&アッサーで誂えた、タターソール・シャツに、ハンチングは、英国王室御用達のベイツなんてどうだろう?
もちろんコートは、フロントに斜めのポケットがついた、1930年代のマッキントッシュ。ポケットからチャラタンのパイプをとり出して一服したら、最高に絵になるなあ……
などと無意味に、妄想がふくらんだので戻す。あ、ついでに車は、ベントレーやブガッティだと白州次郎とかぶるので、ノーブルなイスパノスイザのH-6Cで
砂川家の門前を流れていた砂川堀の分水
この分水は、砂川家の真裏(といっても数百メートル先だが)を流れている玉川上水から来ている。その分岐点を見に行った
(そのとき写したのが、先ほどの屋敷の奥行きの写真だ)
往時、砂川家の裏は田んぼで、それが玉川上水まで続いていたが、現在は都の水道施設と野球場、公園になっていた
――続く
†PIAS†
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