おはようございます。

朝、3時半に起きたのでblogを書いています。

前回の投稿は第1章「文字について」、第2章「貨幣と商業・金融」、

第3章「畏怖と賤視」についてへーそうなんだと思ったところを

中心に紹介しました。

今回は第4章「女性をめぐって」についてまとめます。

とても面白い内容でしたので少し長くなりますがお付き合いください。

残りの第5章「天皇と「日本」の国号」については次回に投稿します。


第4章は女性の地位のお話。

第3章では鎌倉新仏教が非人の救済を大きな課題としていることを

取り上げていた。

これらの諸宗派は女性の救済をもうひとつの重要な課題にしていた。

第4章の冒頭で、1562年に日本に来て世を去るまで35年間日本で暮らした

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの書いた「日欧文化比較」、

松田毅一著「フロイスの日本覚書」(中公新書)を紹介しています。

その第2章「女性とその風貌、風習について」にこう書いてあると。

面白かったので、いくつか紹介します。

「日本の女性は、処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉を失わなければ結婚もできる」、「日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって名誉を失わないし、また結婚もできる。日本ではしばしば妻が夫を離別する」、「日本では娘たちは、両親に断りもしないで、一日でも数日でも一人で好きなところへ出かける。日本の女性は夫に知らせず、好きなところへ行く自由を持っている」(ルイス・フロイスの書物から144-145頁より)

どうでしょう。

「これまでの通説では江戸時代は女性には離婚する権利がない、嫁にいっても夫やその親の気に入らなければ、簡単に離縁される、嫁の方から離縁を求めることなどとてもできなかったと考えられてきた。離縁状(三くだり半)の文書だけ見ていると、夫が離婚の専権を握っているかのように見えるけど、実際は夫は離縁状を書く義務があると言って良い」、「夫だけが離縁状を書くという形、建前が行われているところに、日本の社会の大きな問題があることは間違いないと思うのですが、日本の社会の実態は、法的な制度が示している形とは、だいぶ違うということを、われわれは十分に考えておく必要がある」(ルイス・フロイスの書物から146-147頁より)

と網野さんは述べています。

なるほど、資料=形としてみえる状況と実態は必ずしも一致しない

ということは十分ありえることですね。

どんなdataでも数字だけならいかようにも解釈できる

ということはいくらでもありますから。

148-156頁の「男女の性のあり方」では「夜這い」の風俗とか、

「歌垣の習俗」、女性の旅行、堕胎について触れています。

歌垣とは特定の日時に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を

掛け合う呪的信仰に立つ習俗のこと。歌垣は今で言えば、

カラオケでの合コンのようなものといったところでしょうか。

気が合えばそのままフリーなセックスが行われたようです。

このようなことはお祭りや神社・仏閣に御籠りをしたときなどにも

行われたようです。このことに関連して網野さんはこう述べています。

「お祭りのときや法会のときも同じだと思いますが、神前や仏前は神仏の力のおよぶ場所であり、そこでは世俗の縁が切れる。万葉集、風土記などに出てくる歌垣の場のように、そこには世俗の妻や夫の関係は持ち込まれない場所であり、それゆえに、男女が自由に交渉することができたと考えても、決しておかしくないのではないかと思います」(男女の性のあり方151頁より)


女性の旅行については面白いことが書いてありました。

「中世、道を歩く女性に対して「女捕り(めとり)」、「辻捕り」が行われることがありました。これはある場合にはレイプになるわけですから、少なくともたてまえの上では、法令によってきびしく禁じられているが、あまり罪が重くない」、「【お伽草子】の「ものぐさ太郎」の話の中に、供も連れず、輿にも乗らないでひとりで歩いている女性を女捕ることは、「天下の御許し」であるといわれている(中略)こういう習俗が実際にあるということは、道を旅している場合の男女のあり方は、日常の世界とだいぶちがうことをしめしています。しかも、それを社会が公認しているわけで、「旅の恥はかき捨て」などと言う諺が現在でも残っているのはその名残ではないかと私は考えております」(男女の性のあり方153-154頁より)


堕胎は間引きと同様に昔はよく行われたようです。

今のように避妊具もなく、生活のためということもあったでしょうが、

上のようなことで婚姻外のフリーなセックスが多かったのかも。

網野さんはこうも述べています。

「人びとの日常の生活まで規制するだけの力をもった宗教が、日本の社会ではついに影響力を持ち得なかったということとこの問題(堕胎)とは非常に深い関わりがあると思われます。(中略)その子が育たないとわかると、のどに足をかけて殺してしまうというような女性の行為について、従来は単純に貧困と生活苦によるとされてきましたが、それだけではとらえきれない問題がある、と私は思っています。(中略)さきほどのような状況を考えますと「未婚の母」が非常に多かったと推測されるわけで、ことの善悪は別として、当時の女性の現実に対するひとつの対処の仕方と考えることも十分可能だと思います。それとともに、「七歳までは神のうち」などといわれたことが逆転して、子供は人間と考えられていなかったことも関係してくるかもしれません」(男女の性のあり方155-156頁より)

今も堕胎はあるけれど、昔はかなり多かったのでしょうね。

次の「太良荘の女性たち」では京都の東寺の荘園、若狭国太良荘の女性

のことが書いてありました。

「14世紀以前の女性のあり方を史料にそくして見てみると、

江戸時代よりもはるかに広い社会的活動をしていた。

女性に所領の処分権があったとか、「女地頭」もいた。

また、正式に鎌倉殿の御家人になっている後家もいた。

夫の代わりの意味があるが、とても興味深い」と網野さんは述べています。

昔は女性も社会的に広く活動していて、

社会的地位もかなり高かったのではと思わせますね。

それがその後の長い封建社会が続くうちに家父長制をもとに、

男尊女卑的な思考が生まれ、女性の社会的地位・権利低下を

招来したのでしょうね。

「遍歴する女性の商人は、鎌倉、南北朝時代までは、これまで考えられていたよりもはるかに大きな比重をもって社会で活動していたといってよい。ただ、一方で女性が公的な世界から排除され、抑圧されつづけていたというこれまでの常識と、この事実がどう整合的に理解したらよいのかが、非常に大きな問題になっています。」
(第4章女性職能集団の出現169-170頁より)

南北朝時代までは母系制的な傾向が強く、

家父長制で男性優位が確立した父系制の社会は、

それ以後のものという捉え方があるのですね。

網野さんは日本の古代社会には氏族はなかったから

近親婚にたいするタブーが少なかったとも述べています。

長い文章をお読みいただきありがとうございました。


「日本の歴史を読み返す」