書き始めたら思いのほか長くなってしまいました。
今回で終われば良いですが。
近所の先生に、「音楽の道を多少でも考えているなら先生を変わるように」と再び宣告されたのが小5の時。
その頃はあんなにオテンバだった私も交友関係も変化して「私にとってピアノは特別なもの」と変わっていました。
3年生の時に一度見て頂いたT先生は奈良の新興住宅地に引っ越されて、私の家からは乗り換え2回歩いて20分、2時間近くかかりましたが通う事にしました。
アルペジオ、スケール、和音の弾き方、基本の指使いから全て直すよう指摘されました。
声を荒げることは無かったですが、凛とした厳しさのある先生でした。
あの緊張感が好きでした。
そして日曜日に遠い所まで一人で通うという行為が、周りの友人の誰よりも大人になったようで嬉しかったです。
電車の接続が悪いとタクシーに乗ったり、今の子供を取り巻く環境では考えられませんね。良い時代でした。
1年程通ったでしょうか。T先生はご主人の転勤に伴い東京に帰ってしまわれました。
先生は関西にお知り合いがおられないという事で、相愛大学の「子供のための音楽教室」に行くように言われましたが、その事を前に習っていた先生に話したら烈火の如く怒られ、別の先生を紹介して下さいました。
ある意味、ここがひとつの分岐点だったかも。
音楽教室=良くないと思われたのでしょうね。
そうして大阪芸大の先生に6年の終わりからずっとお世話になることに。
先生は演奏活動をされていて、とても美しい音色で弾かれる方でした。
朗らかな明るいオーラの先生。何でもささっと弾かれ、レッスンで先生が弾かれると曲のイメージが膨らみ、いつしか先生みたいになりたいな、と思うようになりました。
中学になり吹奏楽部に入りクラリネットを吹いていましたが、生活の中心はピアノでした。
その頃にはピアノ=金原みたいになっていて、進路相談のときにも担任から「金原にはピアノがあるから心配してない。好きな高校へ行けばよい」ような事を言われました。
そんな感じで高校受験もあまり頑張って勉強した感じはなく行ける高校へ行きました。
トップクラスで入って(何でここに来たのか!あなたのせいで他の人が落ちる事になったのだ!と最初の面談で激しく言われてびっくりしました)適当に楽しい高校生活を送ってしまい、おそらく下の方の成績で卒業したのではないでしょうか(^_^;)
ピアノはそれなりに練習していました。先生の所にも受験生は3年になるまでは私しかおらず、自分のレベルがどうか?など思う事もなく受験期を迎えました。
そういえば一度だけ「私にはピアノを弾く才能はありますか?」と不安に駆られて聞いた事があります。
先生は「才能なんて誰にもない、好きかどうかだ」と答えられたと思います。
正直好きと言えるか ?? でした。
練習が好きではなかったですから。
でも何となく、私はピアノ科に行くものだ と決めていました。
母は理系の大学に行くよう勧めました。音大じゃなくてもピアノの勉強はできる、音大以外の大学へ行くように、と。
その頃、ラジオから流れた京都の芸大出身の方が演奏したサンサーンスの4番のコンチェルトを聴いてから京都の芸大に行きたかった私は、「私からピアノを取ったら何も残らない」と言いました。(さほど練習していなかったのによく言うよ(^_^;))
この言葉でころっと母は参ってしまったようで、今だに「あの時あなたの言葉に騙された」と言います。(時効だよ~)
ここまで書いて、何故音楽の道を選んだか?さっぱり?です。
何だか、「ピアノ科に行くもの」と誰か擦り込んだとしか思えないくらいです。
大学受験ですか? 京芸に行きたい!とは思うだけで、相変わらず大阪芸大の先生についたまま、無謀にも受験だけはしました。
「なんじゃこりゃ!」
という初見。
前の受験生のうまい演奏。
「こりゃダメだ」
はい、ダメでした。
大阪芸大には全く行く気はなかったのですが、急に不安になった私は2次募集で受験。
はっきり言って「へ」みたいでした。(ごめんなさい)
努力は大してしていないのに、鼻っ柱だけはあった私ははっきり言って舐めていました。
そんな私の鼻っ柱が折れて砕かれるような、思ってもみなかった大学での成績不振。
あれは本当に苦難の日々でした。
次は大学時代書きます。次で終わります。
最後までお読みくださり有難うございました(*^^*)
よろしくお願いいたします。
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