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還暦過ぎたピアニスト

青が好き。色も、響きも、そしてその意味も。若々しい躍動的なイメージがあり、未熟な初々しいイメージもある。「ヨーロッパの赤には、青が一滴」という発想も素敵だと思う。シニアになった今も、できれば青の近くで、楽しみたい・・。

先日、東京に滞在中、サンシャイン・シティに用事があって一人で出かけた。


久々のサンシャイン、というよりも、久々の池袋駅。


日曜日の午後だった事もあり、雨が降っていて皆が傘を差していた事もあって、道の上を歩く人の数は半端じゃなかった。


先日、友人の音楽会で訪れた原宿の竹下通りも、まるでデモ行進をしているかの様な、若い人の数だった・・。


東京を離れると、舞台や美術展に簡単には出かけて行けない寂しさが、つのることは勿論ある。


子供たちが育ってからは時間ができて、殆ど週に二、三度は、舞台や音楽会へ出かけていた位、東京には文化が溢れている。


そういった世界に対する飢餓感は、確かに失せては居ないのだけれど・・。


当地に転居して後5年間、それまで非常勤で教えていた音大に通い続けていて、お蔭で東京を離れた寂しさは感じずにすんだけれど、むしろ毎週東京に着くたびに、駅での混雑には圧倒された。


刺激を求めている若い世代には、東京は確かに無尽蔵に輝きを秘めている場所なのだけど、自分がシニア世代の仲間入りをするにつれて、街中での人口密度の高さには、拒否感を感じる様になった。


全てが東京に集まっている、一極集中の、功罪・・。

 

やはり、我が家に戻るとホッとするなあ。


当たり前、か・・。







ずさんな性格の私は、カロリー計算しながらのダイエット等、とても実行できない。


若い頃は、普通に痩せていたけれど、最初の難関は、二人の年子出産の後に肥大した、それからのダイエットであった。


下の子が生まれて五か月後に、アメリカへ引っ越した。


大学街で、若いママ友たちとの生活。私も、子育て真っ最中。


肥大した自分の体に合った大きなジーンズ等を探すのは、アメリカではいとも簡単だったけど、それよりは、手持ちの洋服に合わせてダイエットする方が、はるかに楽しい事を発見。


リサイタルやピアノコンチェルトで演奏する機会にも恵まれたけど、新しいイヴニングドレスを探す必要はない程度に、何とかダイエットに成功した。異なった環境の中で、それなりに苦労した結果でもあったのだろう。


そして、次にやってきた難関は、帰国して味わった日本食の素晴らしさ。


もともと和食好きなので、海外生活の間よりも、帰国した後の方がはるかに食欲が冴える。


その結果、コンサートで人様の前に出るには、ちょっとなあ・・、状態へ。


そこで無い知恵を絞ったのは、コンサート用のドレスを買いに行く前には、数日間の夕食抜き弾丸ダイエットを実行する。


その結果、大体思い通りのドレスが購入できて、その後は本番まで安心してカロリーを補給した日々を送る。


練習には、勿論体力を必要とするし・・。


演奏会が近づいた頃には、通常の外見に戻っている場合が多いので、最後にはドレスに見合う程度の、又々夕食抜きの数日間。


私は通常、本番前は余り練習はせずに、体力温存の時期にあてる為、成立するのかもしれないけれど。


そして、本番はかなりカロリーを失った状態で臨むので、周りにいる人は驚くのだが、毎回「火事場の馬鹿力」で乗り切っている。


それに、若干の空腹状態の方が、集中力は高まる気がするし。


体力があればこそ、の話なのだけど・・。


演奏会が終われば、勿論たかが外れて快くビールなどで疲れを癒し、日常に戻るのだが。


それを今日まで、数十年間繰り返してきたなあ・・。


それが私の、「コンサート・ダイエット」










土曜日に、友人と演奏会があった。


先日開催した「二台ピアノの演奏会」の、東京バージョン。


個人の経営する、緑溢れた、こじんまりとしたサロン。


でも特徴は、今となっては幻の銘器となってしまった、フランスのピアノ、プレイエルが置かれている事。


最初の連弾曲、フォーレの「ドリー組曲」は、いつ弾いても楽しく、そしてやがて悲しくなる。


曲を捧げられた、作曲者の友人の娘ドリーは、実はフォーレの子供だったという説があり、弾いているとそれが切々と感じられてくるのだ。


プレイエルのピアノの音色は、主張しすぎず繊細で美しい。


二曲目は、私達の恩師ディヒラーの作品「二台ピアノのための、四つのインテルメッツォ


昨年の今頃、友人から手稿の楽譜のコピーを貰って以来、ずっと付き合ってきた曲である。


まず楽譜がかすれていて読みにくい。音の数が膨大で、気が遠くなりそうな譜読み。


そして見慣れた先生の達筆な筆記体の文字は、流れる様に飾られて書かれていて、読むのにはまるでパズルを解いていくかのように難しく、ドイツ人の手助けでやっと解明した内容は、「どんどん速度をましてゆき、倍のテンポまで持っていく」、という、これまた気の遠くなる様な指示。


学生時代からの友人との、合わせの練習も、今となっては楽しい思い出だが、シニアとなった我々二人にとって、かなり工夫(苦労?)の連続ではあった・・。


古い生徒たちや、色々な友人達への近況報告として、折に触れて「学生時代の様な練習に明け暮れている、シニアライフです・・」とメールを送っていたお蔭で、久々の顔ぶれが沢山足を運んでくれた演奏会。


休憩後に演奏したラヴェルの連弾曲「マ・メール・ロワ」と、友人のお義父さまの作品「二台のピアノの為の、みだれ」も皆さま楽しく聴いて下さった。


終演後には、サロンのオーナーがパーティーを開いて下さり、懐かしい顔ぶれと沢山お話ができた。


息子の友人のお母様であるママ友や、私が独身時代に教えていた生徒たち。音大で教えていた卒業生は福岡や新潟から駆けつけて受付を手伝ってくれたり、中学の友人が大勢連れだってきてくれたり、高校の友人達、大学の同級生達、ウィーン時代の友人、音大での先生仲間たち。今回は珍しく、娘も来てくれた。


東京での演奏会は久しぶりだったので、声をかけた人達は殆ど足を運んでくれた、至福の場と時間。


「是非又、この会を続けて下さい」という嬉しい声が耳に残って、友人と二人ですっかりその気になっている、「還暦過ぎたピアニスト」が二名・・。

2年位前に、髪を本来の白髪に戻して以来、見知らぬ子供たちがよく笑ってくれる様になった。


もともと私は、小さな子供達とは余り気持ちが通じない方だったのである、残念ながら・・。


こちらが可愛いなあ、と思いながら眺めていても、すっと目をそらされたり、急にママの手を握り締める様な、子供たちが多かったのだ。


それが、白髪スタイルになって以来。


我が家のマンション前で、或るとき、お母さんに手を引かれた坊やが、私を指さして「あ、白い・・!」と言った時。


お母さんも、きっと私の髪の毛を見て、同じ思いだったのか、「指で、さしてはいけませんよ」等と、たしなめる余裕等はない、といった表情であった。


私の場合、年齢に不足はないけれど、それにしても真っ白な髪のもじゃもじゃ頭は、やや違和感があるのかもしれない・・。


或るときは、駅のホームでじっと私を見ながら、「あれ、ほんとの髪じゃないよね・・」とお母さんに問いかけていた、小さな男の子。


バスに乗っていて、私の方を見ながらニコッと笑ってくれて、何と降りるときには、向こうから手を振ってくれた小さな女の子。


やっと歩き始めた様な、今にも転びそうな、そんな様子が可愛くて、目が合った時に笑いかけてみると、はじけた様な笑顔を見せてくれて、バイバイと手を振る私に、自動人形の様に手を動かしてくれた、ちびっこちゃん。


余りの環境の変化に舞い上がった私は、子供たちは「雪の女王」でも見ている気持ちなのかなあ、とか、童話の中の森で出会ったおばあさん、とか・・?


等と考えているうちに、はたと思い当ったのだ。


あの子たちは、動物園で、自分に笑いかけてくれたり手を振ってくれる、ちょっと珍しい動物に出会った気持ちなのだ、多分。


そうだったのか・・。


高校を卒業して、一度だけ行った三年生の時の、クラス会。


バリバリの進学校ではなかったけれど、中には浪人中の人も居たし、微妙な空気の中、インスピレーションクイズが始まった。


まず配られた紙に、それぞれ自分の名前を書き込む。


集めた紙を、シャッフルして、再度配る。


中に書かれた名前を見て、思いついた印象を書き込む。


再び集められた用紙の、印象が書かれたを部分を幹事が読み上げて、誰に対するイメージなのかを当てるクイズ。



何枚目かに出てきたお題が、「君、星よりもはるかなり・・」


まず、担任の先生が、「○○じゃないか・・。」と、私の名前をつぶやかれた。


異論なく同意する、級友たち。


それが、私の高校時代だった。


確かに、いじめの対象ではなかったけれど・・。


高校三年時には、意識の殆どが大学入試に限られていた様な、団塊の世代。


特に女子高だったので、志望校をカミングアウトするのには、気後れする雰囲気があった。


「私も言うから、あなたも教えて」、というフレーズが、親友になる近道だった時代。


そんな中で、常にピアノを優先して、学校も休みがちな私には、お互い分かち合う秘密もなく、共通の話題も殆どなく、友人らしい相手が居なかった、暗~い時代。


そうか、それが皆には、単なる上から目線に見えていたのか, 或いは、どうでも良い無関係な存在・・。


担任の先生が、その話題が引きずらない様にと思われたのか、自ら当てて下さったのは、せめてもの救いとも言えたけれど・・。



「周囲の目」というのは、自分からは想像のつかないところで定まってしまうのだと、教えられた、私にとってのちょっとした事件。

10年位前、バルト三国の中の、リトアニアへ行った。


ポーランドから、車でラトヴィアの首都リガへ行く途中、通過国のリトアニアで大学を訪問したのだ。


大学では、レクターと言う名称の総長が主催する、ティーパーティに招待された。


10人近い大学側の方々の中で、一見にしてこの方がレクターなのだろうと思われる、ちょっと周りを威圧した感じの人が、まず立ち上がってスピーチを始めた。


勿論歓迎のスピーチだったのだが、リトアニア語の内容は私達にはわからない。


30歳位の女性が、通訳として待機していて、スピーチの内容を英語で説明してくれた。


その後、訪問した仲間の一人が、英語でお礼のスピーチをすると、その通訳の人は、「皆さん、英語はお分かりですので・・」と言って、リトアニア語に通訳する様子はなかった。


それからは、レクターも含めて英語の会話が普通に進み、通訳の人は女性同士のよしみ、と言った感じで私の相手をしてくれた。


結局、その人の役割は、レクターのリトアニア語によるスピーチを、英語に通訳する事、だけだったのだ。


そして、英語が不自由な訳でもないのに、あえて通訳を立てて母国語でスピーチをするレクターに、私は心の中で深い感銘を受けたのだった。


これこそが、母国に自負を持った国際人の姿、ではないか、と、今も折に触れて思い出す。



先日の友人のコンサートで聴いた、シューベルトの「四手の為の幻想曲」D940。


何故か、忘れられない。


ユーチューブで探すと、ラド・ルプーとマレイ・ペライアの演奏が、まるで、アクセスするのを待っていたかの様に、現れた。


シューベルトが最後の年に作曲した、片思いの相手である伯爵令嬢に捧げた曲。


最後のソナタ、B-durとも共通する、シューベルト晩年の世界観。


あのソナタは、恩師のお得意の曲だった。


演奏会でも素晴らしかったけれど、ある時生徒がレッスンでその曲を弾いていると、思わずという感じで、横のピアノで弾き始めた先生の演奏。


余りにもさりげなく、突然目の前に開けた、「死を乗り越えた明るさ」、といった穏やかな世界。


未だに俗人の私は、66歳になってもまだ、わずか31歳で亡くなったシューベルト晩年の、死と隣り合わせの様な世界観は、表現できそうに思えない


でも、もしかしたら、「四手の為の幻想曲」には、少し近寄っていけるかも知れない、という気が何故かしたのだった・・。

日曜日、原宿で中学時代の友人のサロンコンサートがあった。


新幹線で直行したのだが、二時開始に余裕をもって到着。


既に同級生の顔がちらほら見えた。早速、二週間後にある、私の「二台ピアノの演奏会」のチケットを渡した。


今回が7回目という、ピアノ連弾のコンサート。


2003年の初回には、今は亡き翻訳家だった友人も、仲間の一人として一緒に行ったのだ。


そもそも、独身だった彼女が、肺がんの末期だとわかり、中学の友人10人位で支え合った、その仲間たちの交流が今も続いている。


私が2004年に東京を離れても、私の演奏会には連れだって来てくれるし、私が上京すれば、都合をつけて集まってくれる仲間たち。


演奏会では、初めて聴いたシューベルトの幻想曲D940が、特に心に響いたし、グリーグの作品も楽しそうだった。


終了後は、演奏した彼女も参加して、表参道ヒルズ内のレストランでミニ・クラス会。


若者たちの街に紛れ込んで、テンションを上げてのシニア女子会。「OOさんの置き土産ね・・」と再度,亡き友人を忍びながら・・。


解散後、娘宅に向かう途中の電車内で息子から電話あり。着信記録を見ると、夕方にもかけてくれていたらしい。


恵比寿の駅で降りて、掛けなおすと、息子も恵比寿近辺にいるとの事で、期せずしてミニ親子会。途中から義娘も参加。


私は、一足先に退席して、宿泊先の娘宅へ。


翌日は、お昼から友人と二台ピアノの合わせ練習。パリから戻ったばかりの友人の話を聞きながら、久々の合わせ。


迎えにいらしたご主人ともちょっとお会いして、その後は立川で、大学の友人と待ち合わせて、お豆腐料理の夕食。


子供たちに会い、中学時代と大学時代の友人達と会い、留学時代の友人夫妻とも会い、娘とゆっくり話もできて、次々と続く再会は、何と充実した二日間だった事だろう。


でも、身の程知らずというか、年甲斐もなくと言おうか、さすがに疲れた66歳・・。






先日、ブログを書きながらイギリス旅行を懐かしく思い出していたのだが。


キャッスル・ハワードでロケをした「ブライヅヘッド、再び」の映像を見てみたいと思った。


書棚を探すと、友人から貰った翻訳書も見つかった。


もしやDVDがあるかも、と思い「Brideshead Revisited」で検索してみたら、有名なテレビ番組にはつながらなかったが、2008年に制作された映画のDVDに簡単にアクセスでき、其処からAMAZONへ。そして即、購入。


英語の字幕のみ、という注釈付きだったが、映像が見られれば充分である。私には翻訳書があるのだ・・。


かつて、キャッスル・ハワードを見学した際。


売店で、私が原作の本を買っていたら、同じグループで見学していた若い日本女性達が、テレビ番組のビデオを買おうとしていた。


私は先輩ぶって「イギリスのビデオが日本でも見られるかどうか、確かめた方が良いですよ」と助言した。


かつて、ウィーンで沢山買い込んだ「プリンセス・シシー」シリーズが、日本の再生規格に合わなくて、見られず終いだった経験があったから。


結局調べた結果、日本では見られないことが判明。


彼女達も買うのを諦めたし、それからは私の中でも、映像を見るのは無理、と思い込んでいた節があった。


それが今朝。


暇に任せて「Brideshead Revisited」を検索してみたところ、簡単にテレビ版の映像がユーチューブ上に、全編現われたのだ。


凄い時代、である。


少し見始めたのだが、何となく懐かしさがある・・。


そして、それがBBCの制作だとわかって、納得。


やはりBBC作品の連続テレビドラマ、「ミス・マープル」シリーズは、私の最もよく見るDVDなのだ。


時代背景も多分似ているのかもしれないし、音楽の雰囲気が酷似している。


しかし、オックスフォード大学内を闊歩する、若き主人公達の様子を眺めながら、今更ながら文化や歴史のバックグランドの違いを、感じずには居られなかった。


この相違には、「それぞれ」という言葉では片づけられない、悲しいものがある・・。

ヨークシャー滞在中は、食事は毎回主催者側が用意してくれていたので、有名な「フィッシュ・アンド・チップス」を試す機会がなかった。


帰国は、ロンドン経由だったので、最後のチャンスとばかりに目をこらして、市内見物をしながら、例の三角形の紙袋に入っていて、手でつまんで食べる「お魚とポテトのフライ」を探したのだが、中々そういった場面にはぶつからなかった。


余り、都会で出会える代物でもないのだろう。


ハイドパークでは、その広さに驚いたのもつかの間、ハロゲートで別れを告げて来たばかりの、ロシア人のグループやフランス人のグループに出会って、皆行きたい場所は同じなのだなと、おかしくなった。


サマーセット・モームの小説によく出てくる、「ピカデリー・サーカス」に行ってみたいと思い、道行く人々に訊ねてみたけれど、私の発音がどうしても通じなくて結局わからずじまいであった。


ある親切そうなおじいさんは、いくら私が「ピカデリ・サーカス」と繰り返しても、「バッキンガム・パレスは、こっちだよ」と、行きたい場所を決めつけてくれる。


その前に、既に訪れていた宮殿前では、思いがけず虹が見えて、これはちょっと感動した。


ウエストミンスタ-寺院の前では、どうやら15分ごとに鐘が鳴るらしい、とわかり、多分30分くらい寺院の前に佇んで、何度も鐘の音を聴いた記憶がある。


鐘の音のフレーズは意外と短く、よく日本で使われているチャイムは、どうやらオリジナルをリピートしているらしい、というのも発見であった。


結局夕方になって、庶民的なレストランに入り、普通のお皿にのって出てきた、カレイらしお魚とポテトのフライが、私達にとっての「フィッシュ・アンド・チップス」となった。


でもその食事は、とても美味しかったから、まあ終わりよければ全て良し、と言う事にしたのだった。