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還暦過ぎたピアニスト

青が好き。色も、響きも、そしてその意味も。若々しい躍動的なイメージがあり、未熟な初々しいイメージもある。「ヨーロッパの赤には、青が一滴」という発想も素敵だと思う。シニアになった今も、できれば青の近くで、楽しみたい・・。

先日、バッハの舞曲を調べている人からメールがあって、それをきっかけに思い出した話。



ポーランドの人に会うと、「ポロネーズとかマズルカを、踊った事はありますか・・?」と訊くのが、習慣になっていた頃。

 

東京見物に付き合った、ワルシャワから来たお客様の夫人達。


二人とも、「一度だけ、ポロネーズは踊ったことがあります」と答えてくれた。


私程度の英語しか話さない二人だから、詳細は不明で終わったけれど、どうやら大学の最後の年に、大きなダンスパーティーがあって、そこで踊ったらしい・・。


そのパーティの何か月か前から、学生達の為にポロネーズの講習会があったとか。


分かったのは、どうやら彼らにも、日常的にはポロネーズを踊る機会がないらしい、という事位であった。


或るとき、イギリスのハロゲイトで、大きな国際会議があり、私も主人に同伴して一週間ほど滞在したことがある。


最後の夜は、出席者が全員出席して、華やかなバンケットが開かれた。


たまたま、私の席は主人が親しくしているスワヴェックの関係者が多くて、殆どがポーランドからの人達であった。


食事も終わりに近づいた頃、私はいつもの質問をぶつけてみた。


やはり、殆どの人が一度だけポロネーズを踊ったよ、と答えるので、私は、「ポロネーズとは、輪になって踊るダンスなのですか?それとも、男女のペアとか・・?簡単に言うと、どんなパターンのダンスですか?」と尋ねてみた。


そして、例えばという風に、小声でショパンの「英雄ポロネーズ」のテーマを、軽~く口ずさんでみたのだ。


すると、周りにいた数人のおじ様たちが、「違う。違う。ポロネーズは、もっとゆっくりなんだ!」と口を揃えて言う。


まあ、私も軽~く口にしたのを、後悔こそしたけれど。


すると、隣の席に座っていた若い男性が、「ポロネーズの踊りは、一拍目で膝を深く折るので、そこのリズムに重みがかかるのですよ・・」と、晩餐会のテーブルクロスの端っこで、指を曲げながら教えてくれたのだった。


数多くの人に訊ねてみたけれど、その時ほど、「成程!」と納得した事はない。


カール・ベーム指揮の「サロメ」は、どうやら映画だった様で、ソリストたちも粒ぞろいというか、どの人も素晴らしい演奏だったので堪能できたのだが、残念ながら字幕がハンガリー語らしくて、全く助けにならない


オスカー・ワイルドの原作を買うか、オペラの対訳本でも探そうかと、思いあぐねていたのだが・・。


因みに、Salome Wienerstaatsoper で検索してみたら。


何と、1980年来日時の、引っ越し公演の映像が現われたのだ。


どうやら、NHKテレビで放映された様子で、字幕が日本語である。


勿論、Boleslaw Barlog 演出版である。


さすがに、一日二回サロメを見る気はないけれど、根気よく探した甲斐があったというものである。


ユーチューブ、恐るべし。

10月の初旬、ウィーンに数日間滞在する可能性が出てきたので、早速、国立歌劇場の上演予定票をチェックした。


魅力のある出し物は、リヒャルト・シュトラウスの「サロメ」


留学中だった40数年前、新演出でカール・ベームが振ると聞いて、仲間と発売前夜からチケット売り場に並んで、初日のチケットを手に入れた、思い出のオペラである・・。


チケット購入の為に前夜から並ぶ、という体験も、その時が最初だった気がする。



始まる前に、ベームがオーケストラボックスに現れただけで、暫くの間拍手とブラボーが鳴りやまず、若かった私はそれだけで既に感動してしまった。


オスカー・ワイルド脚本の「サロメ」だから、内容は暗いし舞台も音楽も重々しいものだったが、有名な「サロメ・ダンス」や美しい音楽を聴きながら、シュトラウス・ワールドに酔いしれたものだった。


最近ウィーンでオペラを見てきた友人が、すっかり新しくなった演出もあって、「椿姫」などは椅子を並べてそれが宮殿を意味していたり、ちょっとがっかりしたと話していた。


せっかくの、妖しい魅力のサロメが、現代風な舞台に現れたら、ちょっと残念な気がする。



処が、ネットの偉大さ。


10月公演の出演者を調べると、演出家の名前は Boleslaw Barlog だという事がわかり、すぐWikipedia へ飛ぶ。


そして、彼の生涯と共に並んで、生前の大きな仕事が書かれていて、その中に1972年ウィーン国立歌劇場「サロメ」の演出、という表記があったのだ。


そう、私達が新演出だからと騒いで、夜中にチケット売り場に並んだのは、1972年のことだった。

 

そうか。「サロメ」演出は、あれから変わっていないのだ・・。


一昨年、ウィーンのオペラ座で「くるみ割り人形」のバレーを見た時も、演出は今も変わらずに、ルドルフ・ヌレーフだったし・・。



「サロメ」公演日の残席票を見ると、舞台から見て左側の席が殆ど埋まっている・・。


歌舞伎座だと、見せ場を知っている常連さん達で、見応えのある席が早々にふさがってしまうけど、観光客の多いウィーンではどうなのかしら・・。


と思って、ユーチューブで「サロメ」を色々検索してみたところ・・。


いくつか探しているうちに、ハンガリーのテレビで放送されたらしい、ウィーン国立歌劇場での映像が現われた。


生憎、演出者の名前が違っていたので、見応えのある場所の探索はでき無かったが・・。


それよりもカール・ベームの指揮ウィーン・フィルの響きが、ユーチューブにも係わらず、他の演奏とは格段に違って、実に深みのある音色で、そのことに感動。


やっぱり、リヒャルト・シュトラウスは、ウィーン・フィルに限るなあ・・。


















オルガン練習、第一日目


前回さわらせて戴いた時は、バッハ作曲「パッサカリア」のテーマだけを弾いてみた。


テーマは、足鍵盤だけの八小節だから、足だけを見て、ペダルの位置を大体頭に入れておいた。


今日は、第一変奏の八小節。


初めて、足と手で一緒に弾いた。


計画では、まず足を覚えてしまって、その上に手を合わせて行こうと思ったのだが。


手と足、別々に覚えていくのは私の性に合わず、一小節ずつ手足同時に弾いていき、段々に小節を増やしていくという、練習方法に変更した。


手と足、別々に練習するのは、丁度、ピアノを片手ずつ練習する時の、効率の悪さに似ているなと思った。


たとえ、ほんの短い部分ずつであっても,全ての音を響かせながら練習するというのが、音楽を捉えていくには早道である。


片手練習とか、非常に遅いテンポでの練習は、まず全体のイメージが頭の中に出来上がった、次の段階で始めるのが私流。



僅か十六小節なれど、オルガンから聴こえてくるバッハの音色が、何とかパッサカリアらしくなってきた。


次回まで、第二変奏の八小節を、又ピアノで練習していこう・・。


ピアソラのタンゴのリズムに、シューベルトの晩年の連弾曲。


そして、バッハのオルガン曲の最高峰である「パッサカリア」


ちょっと、欲張ってる気もするが、「できる時に、できる事を」の精神で行こう、団塊の世代。


先日、BBCのドキュメンタリ番組、「アストール・ピアソラ」を,、ユーチューブで見た。


代表作は勿論「リベルタンゴ」だけれど、心をこめて作曲したのは「アディオス・ノニーノ」らしい。


イタリヤ語で、「さよなら、おじいさん」という意味の題名は、子供達からみた父の事だと、ピアソラ本人が語っている。


愛する父親が亡くなった際、遠くにいて悼んで作った曲。


この曲に関して、娘のダイアナさんは、「父は、あの曲を弾いて泣いていました。」そして、「あの時を、私は一生忘れる事はありません」と、インタビューで語っている。


「父が、さよなら、出ていくよ、と言ったので、私が、see you later

と答えると、父は、forever と言ったのです」


息子のダニエルさんも、「あそこで、父のモラルが崩れたのです。父はいつも、過去を振り返ってはいけない、常に未来へ進め、と言っていたけれど、彼は家族を捨てて未来へ向かったのです」といった内容の事を、話していた。



愛する父親が亡くなって、渾身の作品を作り上げて、そこでピアソラは、全く異なる一歩を歩き始めたのか・・?


只、家族を捨てて愛人と暮らし始めただけ、とも言えるし・・。


でも現在、ピアソラに没頭中の、シニアライフ。


知人からの推薦で、デパートのフランスフェアへ行った。


フランスの画材、パステルを扱っている会社の展示であった。


多分知人は、私が職業柄、美術関係者との交友を想定して知らせてきたのだろう。


たまたま、その日は友人たちとのランチ会があって、その後友人たちと連なって、フランス展へと流れて行ったのだ。


そもそも、パステル画材は需要が少ないと見えて、対応してくれた人は、暇だったのか色々世間話をしていたのだが・・。


その時には席を外していた社長は、私の知人の知人であって、暇そうなそのスタッフが案内してくれた人は、さすがに国際的な仕事をしてきた人らしい、垢抜けたというべき雰囲気があった。


服装は、デパートの催事場の出品者らしく、シンプルな黒のドレスだったけど、長くヨーロッパで過ごした人特有の着こなしが感じられた。



そうなのだ。着こなしとは、何を着るかではなく、如何に着るかなのだ。


海外へ出掛ける時は、私もその辺の、「how to 」には、配慮しているつもりだけれど、たまたまその時は気分転換的な、余り自分の好みの色でもないオレンジ色のブラウス等を着ていて、何故か深く後悔したのだった。


どんな時でも、何処で初対面の人に出会うかわからないのが、人生である。


「how to」を、改めて感じた日であった。

ブログサーフィンで出会った言葉「死者にプライバシーはないのか?」


その人は、向田邦子さんの日記や恋人の手紙などを、比較的最近、遺族が出版した事について意見を述べていたのだが・・。


ずっと昔、和辻哲郎の「故国の妻へ」という書簡集を読んだ事を思い出した。


彼が、ヨーロッパで見聞した芸術作品の感想等々、とても面白い内容だったのだが、「こうして私信を公開するのは、たいそうためらわれましたが・・」といった夫人の言葉が、後記に書かれていたのが蘇ってきた。



先日、一年前にウィーンで亡くなった友人の、若い時に演奏した映像が送られてきた。


映像化させるために動いた人達も、それを私に贈ってくれた人も、皆亡くなった友人を深く悼む気持ちだったと、思う。


でも、これは果たして彼女の遺志に沿う事だったのだろうか・・。


私の中にある彼女の人柄から思い浮かべると、ちょっと違和感を覚えてしまうのだけど・・。


彼女と私は留学生仲間で、ヴァイオリンとピアノの違いこそあれ、ワイン仲間として親しく付き合い、私は彼女を、女性には稀にみる逸材だと思っていた。


ものの見方が、音楽畑の人間としては冷静だし、ユーモアのセンスが私のツボにはまったことも大きな理由なのかもしれないけれど・・。


バンカラな普段の様子と、時折見せるお育ちの良さが偲ばれる上品さとのギャップも面白く、随分笑わせて貰った・・。


私が帰国して暫くのちに、一時帰国していた彼女に京都で会った事がある。


「ヴェスト・バーンホッフ、以来だよね!」と、ウィーンで最後に見送ってくれた西駅の名前を出す、高揚した私に、「元気いいね・・。」と苦笑しながら答えた、彼女。


急に降り出した雨を避けるため、道端の民家の片隅に駆け込んだ時、小さな声で「軒下、拝借・・」とつぶやいていたっけ。


結婚して、殆ど四半世紀ぶりにウィーンを訪れた私が、まず会いたいと思ったのは彼女だった。


彼の地のオーケストラのヴァイオリン奏者として、その後ウィーンに住み続けていたのだ。


「ちゃんと目で見ないことには、信じられないから・・」と言って、出発前に演奏会のチケットを買って聴きに行った私を、「高いお金を出して、聴きに来てくれたなんて、夕食でもご馳走しなければ申し訳ない・・」と言って、終演後、呑みに連れて行ってくれた。


それから、何度ウィーンや日本で呑んだかな・・。


40年近くにも及ぶウィーン在住者だけど、話していて変なドイツ語が混じることもなく、いつもバンカラ風日本語が乱れる事はなかった。


神楽坂で呑んだ後、飯田橋駅の改札口で見送ったのが、今にしてみれば最後になってしまったけれど、アノラックの様なラフな服装にもかかわらず、振り返ることなく歩み去った彼女の後ろ姿は、どことなく日本人離れした風格があった・・。


ある夏に、京都で待ち合わせをしたこともあった。


私は、彼女に会う前に名所旧跡巡りを若干していて、汗だくになり、待ち合わせ場所のデパ―トの中に入って、お化粧直しをしようと思ったのだ。


処が、地下の食料品売り場で買い物をしていると、「おや、バーサン!」という聞きなれた声が・・。


若かった留学生時代、コケティッシュを嫌う私達が好んで呼び合った「バーサン!」という懐かしい呼び名。


「余りの暑さで、小さな缶ビール買ったんだけど、まだ少し残ってるよ、飲む?」


それが、私の知っている露ちゃん。


愛読書は、考えてみると女性作家の小説が多い。


無神経な男女差別な表現は、まず見当たらないのが理由かも知れない。


都議会での野次問題で、今世の中は騒いでいる様子だが、その類の場面でも、女性作家の作品の上でなら、たとえ意見の違いはあっても、安心して読める気がする。



愛読書筆頭のアガサ・クリスティでは、好きな作品は数えきれないけれど、「動く指」とか「チムニーズ館の秘密」「葬儀を終えて」「ホロー荘の殺人」など、事件の推理以前に、登場人物達が何とも魅力的である。


「動く指」のミーガンは、ちょっと「マイ・フェア・レディ」を連想する。


自分にしか分からない、独特な魅力を秘めた素朴な娘を、都会へ連れて行き一夜にしてレディに仕立て上げる、というのは彼の地の裕福な男性の夢なのであろう。



「チムニーズ館の秘密」では、貴婦人のきまぐれの優しさに出会った貧しい男が、直後に自殺してしまうという場面があり、サマーセット・モームの「女ごころ」が下敷きになっているのだろうと思ったが、これに限らずクリスティの世界は、モームの「英国もの」の作品と通じる処が多々ある。



「ホロー荘の殺人」に登場する彫刻家のヘンリエッタ。


目の前で恋人を彼の妻に殺されて、彼が死の直前に口にした「ヘンリエッタ!」という言葉で、彼の遺志を悟った彼女は、全力を尽くしてその妻をかばい通す。


でも全てが終わって一人になった時、彼女は嘆き悲しむ事よりも、その悲しみを「嘆きの像」という作品に浄化していくのだった。


芸術家である、という性を呪いながら・・。



ボロボロになってしまった愛読書は、大切に手元に置いてはあるけれど、今となってはどの本も字が小さくて読みにくい。


思い切って新しく買い求めると、大抵違った翻訳書に当たってしまって、見慣れた、というか心の中で聞きなれた日本語の響きとは異なっていて、微妙・・。





或るとき、Aスタジオという番組で。


ゲスト出演していた木村拓哉に、業界の人達が寄せた熱狂的ともいえる数々の賞賛の言葉に、興味を引かれた。


その前から、「ほぼ日」のコーナーで、木村拓哉の才能ぶりが時折語られているのを、目にはしていたけれど・・。


一体、どんな人なのだ・・?


最初に見たのは、多分「beautiful Life」だったと思う。


難病を患っって亡くなってしまう、恋人に対する木村拓哉の様々な台詞が、まず私の心に響いた。


「生きていたいという気持ち、どうしたら良い?」と言う恋人に対して、「・・、俺が引き受ける・・」という言葉。


この一言に、私はノックアウトされてしまった。


一見、抽象的な返答だけど、それを聞いた、死んでいかなければならない彼女が、どんなに心休まるか。


その言葉を書いた脚本家にも、それまで何度も頷かされたけれど、早逝していく恋人に、そういった場で応える木村拓哉からは、演技を超えた真実な心情が伝わってくる気がした。


木村拓哉ファンとしては、出演ドラマ作品が多いのは、何とも幸運である。


最も好きなドラマは、「空から降る一億の星」


これは脚本家が、何の躊躇もなく、木村拓哉の魅力を描いていると思える作品。


「ロングバケーション」の、山口智子に振り回されている気弱なピアニストとか、「Hero」の、型破りな検事、といった、斜に構えた描き方ではなく、正攻法に木村拓哉の「いい男ぶり」を、あますところなく描いた作品。


明石家さんまとのお正月番組「さんタク」では、どこまで素でどこから演出かはさておき、その多才ぶりに驚かされる。


そして、ピアニスト役のドラマで、指が華麗に回る演奏をコピーするだけではなくて、ピアニストが最も神経を集中するタッチに視点を置いているのには、非凡な才能を感じずにはいられない。


「Gift」での、都会的でいてどこか狂暴さも秘めている、現実離れした記憶喪失の青年。


木村拓哉は、台詞でNGを出さないというのも有名らしいが、音楽の社会にも、あっという間に覚えて忘れない天才は居るし、その最高峰がモーツァルト・・。


やはり、「選ばれし人」なのであろう。


もっとも、ファンの心理としては、演技の素晴らしさを感じる以前に、彼が画面に現れた瞬間、既にキムタク・ワールドに惹きこまれてしまうのだが・・。








最近ユーチューブで、古いドラマをよく見る。


海外のサイトでアップしているものだから、その国の言語で字幕が入るのだが、時には英語版のがあって、これが色々と面白い。


まずは、英会話の勉強になるし。


日本語字幕付きの外国映画を見るのも、勿論勉強にはなるけれど、私達の世代はやはり、語学は、聞くより読む方になじみがあるので・・。


会話でのちょっとしたつぶやきなどが、英語ではこんな風に言うのか、という納得感があったり。


これは翻訳者の主観がかなり入ってるだろう、という英文も結構あるし・・。


面白いのは、余りポピュラーではない名前。


木村拓哉の若い頃のドラマ「Gift」に登場する、謎の男の名前、岸和田が、字幕ではShinmata となっていて、頻出するだけに笑える。


どうやらプロにとっても、名前の様な、意味が無くて聞きなれない単語を組み立てるのは、難しいらしい・・。


「羽田空港へ!」という台詞が、to Narita Airportとなっていたりすると、外国人の翻訳だという背景が見えて、面白い。


外国語を駆使するのは、いかに難しいものなのか、どことなく安心してしまう、シニアライフ。