





厚田村は日本海に面する小さな漁村です。
もともと自然の良港として恵まれたいくつかの浜に、鮭を求めて漁場が作られ、弁財船が出入りし、鰊景気も加わり、村として発展しました。
そんな村の宿命ともいえる海難事故は、常に身近に存在していました。
気象学や港、船舶の機能が著しく発展した現在も、起こり続けています。
厚田村史には、昭和に入ってからの二度の大きな事故が記録されています。
4年11月、古澤 18名。
12年12月、嶺泊 15名。
何れも岸に程近いところ。
家族や村人たちの悲痛な叫びの中、海にのまれ命を落としたとあります。
もともと自然の良港として恵まれたいくつかの浜に、鮭を求めて漁場が作られ、弁財船が出入りし、鰊景気も加わり、村として発展しました。
そんな村の宿命ともいえる海難事故は、常に身近に存在していました。
気象学や港、船舶の機能が著しく発展した現在も、起こり続けています。
厚田村史には、昭和に入ってからの二度の大きな事故が記録されています。
4年11月、古澤 18名。
12年12月、嶺泊 15名。
何れも岸に程近いところ。
家族や村人たちの悲痛な叫びの中、海にのまれ命を落としたとあります。
また、村の語り部の話を編集した本には、昭和33年御大典を記念して多くの観音像が村人たちの寄進により、古澤から厚田村本村の沿道に立てられたことが記されています。
御大典記念とは、当時の皇太子の御成婚記念のことと思われますが、この時期すでに鰊漁は衰退し村は疲弊していました。
苦しい生活の中で、村人達が資金を調達し合ってまで立てたこの観音像には、事故で亡くなった33名を偲び、鎮魂の強い気持ちが込められていたそうです。
御大典記念とは、当時の皇太子の御成婚記念のことと思われますが、この時期すでに鰊漁は衰退し村は疲弊していました。
苦しい生活の中で、村人達が資金を調達し合ってまで立てたこの観音像には、事故で亡くなった33名を偲び、鎮魂の強い気持ちが込められていたそうです。
その後50年代に入ってからも、別狩の厚田川河口沿岸で6名もの犠牲者をだした事故がありました。
いずれの事故も、ハタハタ漁が行われる今頃、突然、玉風(北西風)が吹き荒れる時期。
いずれの事故も、ハタハタ漁が行われる今頃、突然、玉風(北西風)が吹き荒れる時期。
そして、先日11月28日、また同じ場所で船が転覆、一人の漁師さんのが命を落としました。
村中で唯一、たった一人で船に乗り60年余りも漁を続けてきた長老。
漁師仲間から尊敬と親しみ、少しの揶揄も込めて「海賊」と呼ばれるくらい海を知り尽くした人。
凛として正義感が強く、反面頑固で口が悪いけれど、時折見せる優しさと寂しさは、人を引きつけもしました。
この老漁師さんの番屋は猫家のすぐ近くにあり、厚田移住後、初めてに親しくなった漁師さん。
7月のお祭りの御海渡りには、飾り立てた船に乗せてもらいました。
そして、夏の終わり頃から急速に心身に老いが感じられ、毎日何度も安否を確認せずにはいられなくなっていました。
そしてまた、「出戻りボッチ」の里親でもありました。
村中で唯一、たった一人で船に乗り60年余りも漁を続けてきた長老。
漁師仲間から尊敬と親しみ、少しの揶揄も込めて「海賊」と呼ばれるくらい海を知り尽くした人。
凛として正義感が強く、反面頑固で口が悪いけれど、時折見せる優しさと寂しさは、人を引きつけもしました。
この老漁師さんの番屋は猫家のすぐ近くにあり、厚田移住後、初めてに親しくなった漁師さん。
7月のお祭りの御海渡りには、飾り立てた船に乗せてもらいました。
そして、夏の終わり頃から急速に心身に老いが感じられ、毎日何度も安否を確認せずにはいられなくなっていました。
そしてまた、「出戻りボッチ」の里親でもありました。
今、冥福を祈りながら、もう一つの観音像が心の中に立ったような気がしています・・。
写真1:複雑に消波提とブロックで守られた港を一歩出ると、脅威を秘めた外海。
写真2:夏は海水浴場にもなる別狩の厚田川河口域。穏やかに晴れた初冬の浜と海。
別狩の丘から事故前日(2005・11・27)撮影
写真3~:後年、国道の舗装拡張工事の為、古澤から厚田本村までの村々の墓地やお寺の境内、集落のはずれ等に移され、ひっそりと風化しながら立っている観音像。
写真最後:別狩の丘に建つお寺の境内にある観音像。この真下が厚田川河口域の浜。
写真2:夏は海水浴場にもなる別狩の厚田川河口域。穏やかに晴れた初冬の浜と海。
別狩の丘から事故前日(2005・11・27)撮影
写真3~:後年、国道の舗装拡張工事の為、古澤から厚田本村までの村々の墓地やお寺の境内、集落のはずれ等に移され、ひっそりと風化しながら立っている観音像。
写真最後:別狩の丘に建つお寺の境内にある観音像。この真下が厚田川河口域の浜。









