自己啓発セミナーの語られかた~集団内の自律と他律をめぐって
ご訪問ありがとうございます。
Web上で公開するようなレベルの論文ではないかもしれませんが、筆者なりの「思い」を込めたものです。
タンスのこやし(?)になりかけた我が子に、よろしければ命吹き込んでやってください。
Amebaでブログを始めよう!
1 | 2 | 3 | 4 | 最初次のページへ >>

文献

[文献]
【B】
Bainbridge, William Sims, 2004, "After the New Age", Journal for the Scientific Study of Religion, New Haven, 43(3):381-394.
Bauman, Zygmunt, 1990, Thinking Sociologically, USA: B. Blackwell.(=1993,奥井智之訳,『社会学の考え方──日常生活の成り立ちを探る』HBJ出版局).
Bellah, Robert N., Richard Madsen, William M. Sullivan, Ann Swidler, and Steven M. Tipton, 1985, Habits of the Heart:: Individualism and Commitment in American Life, California: University of California Press.(=1991,島薗進・中村圭志訳『心の習慣──アメリカ個人主義のゆくえ』みすず書房).
【D】
Durkheim, Emile, 1895, Les Regles de la methode sociologique, Presses Universitaires de France.(=1978,宮島喬訳,『社会学的方法の規準』岩波書店).
【E】
塩谷智美,1997,『マインド・レイプ──自己啓発セミナーの危険な素顔ドキュメント』三一書房.
【F】
二澤雅喜・島田裕巳,1998,『洗脳体験』JICC出版局.
【G】
Giddens, Anthony, 1991, Modernity and Self-Identity: Self and Society in the Late Modern Age, Polity Press.(=2005,秋吉美都・安藤太郎・筒井淳也訳『モダニティと自己アイデンティティ──後期近代における自己と社会』ハーベスト社).
———─, 1992, The Transformation of Intimacy:Sexuality, Love and Eroticism in Modern Societies, Polity Press.(=1995,松尾精文・松川昭子訳『親密性の変容──近代社会におけるセクシュアリティ・愛情・エロティシズム』而立書房).
【H】
Haga Manabu, 1995, “Self-Development Seminars in Japan", Japanese Journal of Religious Studies, 22(3-4):283-299.
芳賀学,1998,「親密さと自由の共存──自己啓発セミナーのコミュニケーション特性」島薗進・越智貢『情報社会の文化4──心情の変容』東京大学出版会.
———─,2004,「匿名的で、かつ『親密』なかかわり——1.5次関係としての自己啓発セミナー」伊藤雅之・樫尾直樹・弓山達也編『スピリチュアリティの社会学──現代世界の宗教性の探究』世界思想社.
芳賀学・弓山達也,1994,『祈る ふれあう 感じる──自分探しのオデッセー』IPC.
Heelas, Paul, 1992, 'The Sacralization of the Self and New Age Capitalism', Nicholas Abercrombie and Alan Warde(eds), Social Change in Contemporary Britain, Polity Press.
────, 1996, The New Age Movement: The Celebration of the Self and the Sacralization of Modernity, Blackwell Publishers.
土方透,1992,「『個人化された宗教』と『社会の発展』──現代日本における宗教的行動を与件に」『東洋学術研究』東洋学術研究所,31:87-102.
Hogg, Michal A., Dominic Abrams, 1988, Social Identifications: A Social Psychology of Intergroup Relations and group process, Routledge.(=1995,吉森護・野村泰代訳,『社会的アイデンティティ理論──新しい社会心理学体系化のための一般理論』北大路書房).
【I】
井上芳保,1988,『現代におけるルサンチマン処理産業の社会的機能──iBDセミナーとモラロジーにみるオルタナティブの行方』1987年度文部省科学研究費補助金研究成果報告書.
────,1991,『苦悩する自己啓発セミナーの研究──解放のイメージを求めて』1991年度文部省科学研究費補助金研究成果報告書.
────,1993,「情報社会における身体性メッセージ──自己啓発セミナー現場再考」『現代社会学研究』経営社会学会,6: 81-105.
────,2000,「消費社会の神話としてのカウンセリング」日本社会臨床学会『カウンセリング・幻想と現実 上巻 理論と社会』現代書館.
────,2003,「「心のケア」の幻想と現実をめぐって──「再魔術化」の時代に耐える社会臨床のために」,井上芳保編,『「心のケア」を再考する』現代書館.
石川准,1992,『アイデンティティゲーム──存在証明の社会学』新評論.
伊藤雅之,2003,『現代社会とスピリチュアリティ——現代人の宗教意識の社会学的探究』渓水社.
伊藤雅之・樫尾直樹・弓山達也編,2004,『スピリチュアリティの社会学──現代世界の宗教性の探究』世界思想社.
岩井洋,2003,『目からウロコの宗教──人はなぜ「神」を求めるのか』PHP研究所.
【K】
柿田睦夫,1999,『自己啓発セミナー──「こころの商品化」の最前線』新日本出版社.
柿田睦夫・藤田文,1991,『霊・超能力と自己啓発──手さぐりする青年たち』新日本出版社.
金子郁容,1992,『ボランティア──もうひとつの情報社会』岩波書店.
葛西賢太,1998,「『精神世界』を支持する<ゆるやかな共同性>」『宗教と社会』「宗教と社会」学会,4:129-152.
樫村愛子,1998a,「自己啓発セミナーの困難──『自己による自己の支配』が生み出す自己の解体」『現代思想』26(8):214-226.
────,1998b,『ラカン派社会学入門』世織書房.
小池靖,1997,「商品としての自己啓発セミナー」,河合隼雄・上野千鶴子編『現代日本文化論8 欲望と消費』岩波書店.
────,1998a,「パスト・プレズント・アンド・フューチャー──ニューエイジ研究の歴史と展望」「宗教と社会」学会『宗教と社会 別冊』
────,1998b,「ポジティブ・シンキングからニューエイジまで──ネットワーク・ダイレクトセリングと自己啓発セミナーの宗教社会学」,「宗教と社会」学会編『宗教と社会』4:49-77.
────,2003,「自己啓発セミナーとその周辺──マルチ商法、精神世界、セラピー文化」『日本脱カルト研究会報』日本脱カルト研究会,8: 24-25.
────,2004,「精神世界におけるカルト化──ライフスペースを事例に」伊藤雅之・樫尾直樹・弓山達也編,『スピリチュアリティの社会学──現代世界の宗教性の探究』世界思想社.
小久保温,2003a,「自己啓発セミナーの歴史」『日本脱カルト研究会報』日本脱カルト研究会,8: 6-8.
────,2003b,「自己啓発セミナーのプログラム」『日本脱カルト研究会報』日本脱カルト研究会,8: 9-17.
────,2003c,「自己啓発セミナー問題概論」『日本脱カルト研究会報』日本脱カルト研究会8: 18-23.
国民生活センター,1990,「急増する“精神修養講座”──不透明な内容・勧誘の背景、情報も不足」『月刊国民生活』20(9):92-97.
【L】
Luckmann, Thomas,1967, The Invisible Religion: The Problem of Religion in Modern Society, The Macmillan Company.(=1976,赤池憲昭・ヤン・スィンゲドー訳『見えない宗教──現代宗教社会学入門』ヨルダン社).
Lukes, Steven Michael, 1973, Individualism, Oxford and Harper and Row, New York.(=1981,間宏・江崎幸一・児玉賢郎・小玉敏彦訳,『個人主義』お茶の水書房).
【M】
毎日新聞宗教取材班,1993,『世紀末の神サマ──ルポ・若者と宗教』東方出版.
森真一,2000,『自己コントロールの檻』講談社.
【O】
奥村隆,1998,『他者といる技法──コミュニケーションの社会学』日本評論社.
大沼孝次,1996,『マインド・コントロールと闘う方法──自己啓発セミナー、カルトな宗教、悪徳商法から身を守る』鹿砦社.
大谷栄一,2004,「スピリチュアリティ研究の最前線──20世紀の宗教研究から21世紀の新しい宗教研究へ」伊藤雅之・樫尾直樹・弓山達也編,『スピリチュアリティの社会学──現代世界の宗教性の探究』世界思想社.
【S】
佐藤郁哉・山田真茂留,2004,『制度と文化──組織を動かす見えない力』日本経済新聞社.
島田裕巳,1998,「マインド・コントロール社会の到来」『imago』青土社,8月号:110-117.
嶋村久子,1993,「自己開発セミナーの疑問点」『imago』青土社,8月号,152-159
島薗進,1992,『新新宗教と宗教ブーム』岩波書店.
────,1996,『精神世界のゆくえ──現代世界と新霊性運動』東京堂出版.
────,2001,『ポストモダンの新宗教──現代日本の精神状況の底流』東京堂出版.
────,2004a,「現代宗教と宗教研究──ポスト枢軸文明の「宗教」概念」『宗教研究』日本宗教学会,77(4):58-70.
────,2004b,「現代日本と『宗教』──超越的普遍性の理念とその相対化」池上良正・小田淑子・島薗進・末木文美士・関一敏・鶴岡賀雄編『宗教のゆくえ』岩波書店.
────,2004c,「社会の個人化と宗教の個人化」『社会学評論』有斐閣,54(4):431-448.
Storm, Rachel, In search of heaven on earth.(=1993,高橋巌・小杉英了訳『ニューエイジの歴史と現在──地上の楽園を求めて』角川書店).
杉山幸子,2004,『新宗教とアイデンティティ——回心と癒しの宗教社会心理学』新曜社.
【T】
Tipton, Steven M., 1982, Getting Saved from the Sixties: Moral Meaning in Conversation and Cultural Change. Berkeley: University of California Press.
津村俊充,1998,「自己啓発セミナーとマインド・コントロール──Tグループを用いた人間関係トレーニングと似ても非なるもの」『現代のエスプリ』至文堂,369:182-195.
【U】
上田紀行,1997,『癒しの時代をひらく』法藏館.
【W】
渡辺浪二,2003,「自己啓発セミナーとグループワーク──心理学的観点から」『日本脱カルト研究会報』日本脱カルト研究会,8: 26-30.
【Y】
山田真茂留,1991,「組織アイデンティティ──帰属意識はどう変わってきているか」吉田民人編『社会学の理論でとく 現代のしくみ』新曜社.
────,2005a,「集団・組織と新しい関係性」船津衛・山田真茂留・浅川達人『21世紀の社会学』放送大学教育振興会.
────,2005b,「世俗化と現代宗教」船津衛・山田真茂留・浅川達人『21世紀の社会学』放送大学教育振興会.
山本智宏,2003,「ロバート・ベラーの個人主義論──功利的・表出的個人主義批判を中心に」『社会学研究』74号,東北社会学研究会.
弓山達也,1992,「自己啓発セミナーとマスコミ報道」『國學院雑誌』國學院大學,93(4):84-102.
米山義男,1988,『宗教時代──いま日本人のココロに起っていること』晶文社.
吉田敦則,2003,「当惑と秩序──自己啓発セミナーにおける当惑の回避過程について」『ソシオロジカル・ペーパーズ』早稲田大学大学院社会学院生研究会,12:109-121.

[URL]
自己啓発セミナー実態調査
http://homepage2.nifty.com/seminar-spirit/semien/
自己啓発セミナーに関する情報
http://www.dma.aoba.sendai.jp/~acchan/Seminar/
自己啓発セミナー対策ガイド:http://www.geocities.jp/seminar_spirit/
日本脱カルト協会:http://www.cnet-sc.ne.jp/jdcc/
Sakiユs Homepage:http://www5a.biglobe.ne.jp/~saki-k/


終章 自己啓発セミナー研究の可能性


終章 自己啓発セミナー研究の可能性

自己啓発セミナーの語りかた

 スピリチュアリティ研究は、その領域の行為者に対し愛のある領域だと筆者は認識している。いくら当人たちが「宗教は嫌」と言おうと、宗教の、特に機能的な定義に則って彼らを振り分けることはできたはずである。にもかかわらず、「宗教はちょっと抵抗あるけど」という行為者の「気持ち」を汲み取ったという一面を持つのではないだろうか。明確な信仰共同体かゆるやかなネットワークか、といった対置の中にも、それが行為者にとって魅力的であるか否かといったことまで含めた図式である。そうして様々な現代的な現象が「スピリチュアリティ」として語られてきた。それは、「従来の“宗教”では説明しきれないものを」という、ある種「対応策」といった側面が強いことにもよるだろう。だからこそ、現在のスピリチュアリティ研究は、「対応策」を抜けるべく概念を確定的にしようという段階にあるのではないだろうか。

 そういった意味で、本稿は、一見してスピリチュアリティ研究の概念画定に貢献するものとは対極のものとなってしまったように思われるかもしれない。というのも、スピリチュアリティを含む新霊性運動=文化の区分けを参照しながらも、最終的にその区分けに則った分析考察をしたわけではないからである。それは、スピリチュアリティの文脈で語られながら、それとして論じて良いのかという議論に晒されてきた自己啓発セミナーを「どちら」と判断するには、スピリチュアリティの類型や概念は曖昧であったことによる。共同体とゆるやかなネットワークという対立も、「ネットワーク志向」というよりは、反-共同体の側面ばかりが目立ったように思う。

 そこで筆者が採用したのが、社会的アイデンティティ論、および自己カテゴリゼーション論による「集団」の概念だったのだ。元は社会心理学の潮流ではあるが、個人に還元され得ない「集団」を想定するというその姿勢は、社会学にも非常に親和的であると言えよう。さらにそれは、集団の存立条件をその個人の「成員性の認知」に求めたという点で、スピリチュアリティ研究にも親和的なものではないだろうか。スピリチュアリティは、そこに共同性があるとはいえ、それが(基本的には)個人単位で行われるため、その行為者にきわめて近いところで現象を分析していく必要があるだろう。そういった場合に、個人の中に集団を見るという上記の2つの理論は個人を非常に重視するスピリチュアリティへの貢献可能性を秘めていると言えるだろう。

 上記の共同体の拒絶およびネットワーク志向から、自己啓発セミナーに関連する部分、すなわち、集団的な束縛、閉塞感の忌避と「自律性」志向だけを抽出してしまったのは、あまりに単純だったかもしれない。だがそうして、行為者が集合的にどういった志向を持つかを解釈し、そこからアプローチしていくという姿勢から、自己啓発セミナー空間を生き生きとしたものとして描くことができたと思っている。たとえば、成員性の認知として集団性を見ると、「自律性」志向と葛藤する姿もあり、また自律性の過剰故の集団依存も見受けられた。その中では他では見られないほどの他律と、それでも「自律性」志向であり続ける姿があった。これは、たとえば自己啓発セミナーの受講生は「他律的である」と判子を押すことでは得られない回答であると言えるだろう。

 とはいえ、本稿の主題は自己啓発セミナーであり、スピリチュアリティ研究も、自己啓発セミナーを語るにあたって必要な範囲で触れたものである。だが、上記のような行為者の認知の重視は、自己啓発セミナーを対象として語る上では特に、必要な態度だと筆者は考えている。「操作」に基点を置いて全てを解釈すること、「責任」に基点を置いて全てを解釈すること、たんなる「お祭り騒ぎ」として解釈することなど、どれか1つを選択すればひとまず説明しきることができる。だが、そうして全体を捉えることはできないというのが、本稿の筆者としての1つの結論である。

「自己啓発セミナー」のゆらぎ

 「自己啓発セミナー」という言葉は、セミナー会社によって積極的に名乗られてきたものではない。その呼ばれ方も「自己啓発セミナー」のほかに、「自己開発セミナー」、「人格改造セミナー」、「精神修練講座」などと様々である。「自己開発セミナー報告」と題されたものが、中身はエンカウンター・グループの報告であることもある 。呼称が安定してきたのは1990年後半である。にもかかわらずその輪郭は、既にゆらぎ始めている。

 筆者が受講したセミナーは(細かい点に違いは見受けられるものの)ライフダイナミックスのプログラムを受け継いだものであるが、まさにその「ライフダイナミックスを受け継いだ」という点からしか「自己啓発セミナー」だと判断することはできない。芳賀[1998:127]が「バブル経済の到来とともに、急拡張した自己啓発セミナーは、その終焉とともに、多様な方向への転身と融合の時代を迎えている」と言う通り、カウンセリングや企業研修など多様な方向へと分化していっている。多くの研究者が経験してきたiBDのプログラムに多大な影響を受けているからといって、コーチ21はコーチングの会社であり、自己啓発セミナー会社ではない。ライフダイナミックスから受け継いだプログラムを多く含むからといって、「日本創造教育研究所」は企業研修会社であって自己啓発セミナー会社ではない。当初よりその境界線が曖昧であっただけに、もはや、これらのセミナーは「自己啓発セミナー」という現象としてまとめるのは難しくなっているのである。

 「自己啓発セミナー」の輪郭がゆらいできたことのみならず、実際の受講の数やマスコミ報道の数からしても、「自己啓発セミナー」それ自体は「流行」しているとは言えない。だがそれでも、今も確かに存在する自己啓発セミナー空間は、きわめて現代的な空間である。いや、自己啓発セミナーが基本的なプログラムやメッセージを変えていないとはいえ、そこで作られる効果や関係は受講生の性質によって変化する。最も単純には、コントロールが弱い時代にはセミナーは「責任を取る」ことを受講生に強調する場として理解され、コントロールが強い時代にはその場は「解放」として理解され得るだろう。したがって、それが存在する限りはいつでも現代的な空間になり得る。そういった意味では、自己啓発セミナーで言われる「セミナーを作るのはあなた方受講生です」というのはあながち外れてもいない。

 一方で、それは相変わらず特異であり続けている。(流行が過ぎたがゆえにますますそれは特異かもしれない。)受講経験をもつ筆者がもし「その場にいれば皆泣くものだ」とそこでの行動が「普通」だと主張したところで、「はまってしまった」と思われるだろう。筆者自身、私が経験していない第2段階以降の様子を体験ルポ等で読むと、つい「理解し難い」と感じてしまう面がある。そういった意味で、いくらその感動のメカニズムが一般論で理解され得るようなものであっても、セミナー空間はやはり特異なのである。そして特異であることこそが、経験の有無という境界線をより強固なものとし、社会的アイデンティティを作り上げる。


セミナーのマイルド化

 第1章3節で、1991年の時点でマイルド化が指摘されていたと述べた。最後ではあるが、今後のセミナー研究の可能性を示すべくこれに関連して書いておきたい。

 小池[1997:142]は「セミナーでは参加者全員が主宰者の思惑通り感動するわけではなく、また、全員がうまくセミナーの論理を受け入れるわけでもない。初日や2日目で脱落する参加者も必ずおり、最終的には計10人弱の脱落者が毎回出ている(全体の1割前後)」と述べている。脱落者の存在は体験ルポや雑誌記事を見てもよく示される。そしてその存在は、「残った自分たちは頑張ろう」という連帯感を高めるようなものでもあったろう。そういった中、筆者の受講したセミナーでは1人も脱落者はいなかった。「みんなで最後まで頑張っていこう」という連帯感、またそうして支え合うことをトレーナーが促すような発言ももちろんあったが、そこには「誰かが脱落する」という切迫したものすら感じられなかったように思う。ある1人が時間になっても現れないことに、受講生同士で青い顔を見合わせた程度である。グランドルールの説明の時点で同意できなければ退出するようにというトレーナーの言葉にも「まだ始まってもいないのに退出するものがいるわけがない」というのが素直な感想だった。もちろんそれが「セミナーが素晴らしかったからだ」と主張するつもりはない。また筆者の受講したたった1社の1回の経験だけが証明になり得るはずもない。だがこれも、「マイルド化」なるものの可能性を示す1つではあるだろう。

 時計をつけていても何も言われない、周囲に緊張が走るとはいえ居眠りをする受講生もいる。脱落者もいない。けれど、「泣ける」。筆者の立場は、たとえマイルド化が進行していたとしてもセミナーの効用は基本的には変わらないといったものではあるが、筆者がセミナー集団の継続の限界の可能性を見た「勧誘」がなくなり、企業一括受講(日本創造教育研究所のオーナー会員制度など)になればどうなるか。あるいは、企業に出向き、知り合いばかりで行われるセミナーには「匿名性」はないが、それで得られる効果はどのようなものか。これまでセミナーに必須だとされていた要素が次第になくなって行き、単に「マイルド化した」というよりは、もはや輪郭すら掴めない。「セミナーは基本的にはどれも同じだ」とはもはや言っていられないであろう。可能であるならば、今後の自己啓発セミナー研究はそういったプログラムの差異に焦点を合わせていくべきではないだろうか。

 セミナー現象は、輪郭こそ掴みにくいものであるが、今しばらくはニーズはあるものであろう。この研究の蓄積が、今後コーチングや新人研修など、セミナーが直接的に源流となっているものの研究へとつながっていくことを期待している。

第4章第4節 自己啓発セミナー集団継続の限界


第4章 集団認知とその継続可能性

 第4節 自己啓発セミナー集団継続の限界

 自己啓発セミナーは、セミナーという「一定期間の」プログラムであるという形態によって「集団」に拒否感を示す者にとって敷居の低いものとなった。だが、それは事後的に成員性を伴う「集団」として認知されることとなる。それは「選択」という名の下、そして「その場限りだから」と思っていた受講生にとっては特に獲得的なものであり、それは重要な居場所となっていく。

 しかし、たとえば芳賀が、セミナーは「通過する場所」であり、教団や会社のような恒常的な性格は弱いと言うように[芳賀・弓山 1994:165]、「集団存続としての一時性」は、多くの研究者によって示され、またそれは事実であるためそのことは否定しようがない。重要な居場所となったはずのセミナー集団から、受講生は何故継続的に関わることをやめてしまうのか。それに答えないわけにはいかない。

暗黙のルールの出現

 自己啓発セミナー空間は、「明示的なルール」に守られ「コントロール不可能なもの」(他者に「コントロールされたもの」)を投げ出す場であった。だが、それも長続きはしない。少なくとも、危うい。継続的にかかわることは、そこに「市民社会」のルールと同じ原理を持つ「暗黙のルール」が出現する可能性と常に隣り合わせである。そこで正しい行為を「選択」する、つまり自己コントロールすることが「暗に」求められるようになるかもしれない。そういった意味で、セミナーは受講生にとって、「続けたい」ものから「続けなければならない」という煩わしさを与えるものとなるのである。そうなったとき、受講生にとっては1つのセミナー空間の魅力が失われる可能性は大いにあり得ることである。「条件としての一時性」によって「今-ここ」に自分を投げ出していた受講生にとっては、重苦しいものへと転化し、堪え難くなる場合もある。

 だが、他の市民社会に比べれば相対的にそのルールが受講生の中に形成されにくいだろう。また、それは毎日顔を合わせる集団ではないがために、「キラキラしたジブン」にたまに「戻り」たいときに顔を出せば、それはそれで都合の良い空間ともなり得る。

エンロールは心理的圧迫だからつらいのか

 自己啓発セミナー空間が受講生同士の「集団」として継続することが難しいとすれば、その原因は、他の何よりも、自己啓発セミナーのプログラムの内部にあるのではないだろうか。

 その齟齬を生み出すもののうちの1つとなるのが、いわゆる「勧誘マシーン」となる第3段階の存在である。第3段階に至って受講生が疑問を抱くようになり、それがセミナーを離れるきっかけになるという点についてはほとんどの文献で指摘されてきたことであり、一般誌でも批判されてきた。第3章1節では、肯定的に評価している石川でさえ疑問を持ったことを示した。だが、単に「エンロールは大変だから」というだけでは説明することはできない。何故ならば、第2段階までで既に過剰なほどの(だがセミナーにとっては必然的な)心理的圧迫を受けており、それを乗り越えた受講生が第3段階を受講しているのならば、心理的圧迫を理由にセミナーから離れるとは論理的に納得のし難いものだからである。第2段階でも心理的圧迫のあとにその癒しが与えられる通り、第3段階でも癒しは与えられる。セミナーもエンロールがいかに受講生にとって過酷なものであるかは十分に認識されており、そのつらさを超える(逆手に取る)レトリックとエクササイズを持つ。たとえばそれは、「これを乗り越えれば怖いものはない」、「これは他者の幸せのためなのだ」などというレトリックと、「エンロールなどできない」と出てこなくなるまで言わせるといったエクササイズである。だが、それにもかかわらず受講生がその集団を離れるとなれば、それには「大変だから」という言葉とは別の説明が必要であろう。

 もちろん第1には、他のコースとは違い集中的に行われるわけではなく、3ヶ月という長期にわたることによって、疑問を持続的に抱き続ける隙間があることも考えられる。だがさらにそれは、新たな「他」との出会いによる「集団」境界線の引き直しとして考察することができる。

境界線の引き直し

 第1章2節で、トレーナーは「エンロールは映画を勧めるのと一緒だ」などと説明すると述べた。だが、自己啓発セミナーにおける自分の成員性を認知している場合、エンロールは、「あれは良いから行ってみると良い」という外側からの「勧め」というよりは、集団の内側にいる当事者としての「誘い」である。それは自己の経験の肯定のみならず、自集団の肯定であるとも言えよう。そしてここで重要なのは、必然的にそれが、商品提供者としての自分と新たな「他」との出会いを伴う点である。もちろんエンロールに至らずともセミナー外との線引きはなされてきたはずである。だがこの段階で決定的に異なるのは、トレーナーおよび営利団体である経営主体の立ち位置である。純粋に「受講生」として自分をカテゴライズしていれば、彼らは必ずしも自集団内にいる者としては理解されない。ところが、商品提供者としてのカテゴリゼーションによって、「会社」それ自体が「自集団」に含まれることになる。集団の中に、あまりにも目立ち過ぎる、そしてきわめて強い力をもった異分子が存在するということになるのである。

 たとえばこれは、ある企業に非常に影響力の強い外部経営コンサルタントがその企業の幹部になることを想像するとわかりやすいだろう。コンサルタントは外部であるが故に、内部のリーダーが言えば反感を買ってしまうようなことを、顧客企業に言うことができる傾向がある。それは客観的な判断をすることができる立場と認識されているということでもあろうが、「人間による支配」とは認識されがたいことによるものとも考えられる。契約関係によってその支配関係が支配ではないかのように認識されていたものが、集団内に参入された途端に、支配へと転化するのだ。もちろんそれは、そのコンサルタントが外部経営コンサルタントであるときと同じようにコントロールを続けた場合の話である。そして、自己啓発セミナーにおけるトレーナーおよび経営主体を集団へとカテゴライズすることは、まさしくその、「コンサルタントであるときと同じようにコントロール」を続けるということを指すのである。

 石川[1992:170]は勧誘に至り受講生は「サービスの受け手からサービスの送り手へ」と立場を変えるという。この言葉を借りるならば、第1段階、第2段階で「サービスの受け手」であったときには、セミナー会社やそこに所属するトレーナーは、「ルール」という無機質な存在として解釈されてきたはずだった。それが「サービスの送り手」の1人として受講生の認識の中で「われわれ」に参入されることで、生身の人間として受講生の前に立ち現れるのである。その途端に、「ルール」への服従が、「人間」への服従へと転化する。「ジブン」が自律的であるということを認識の基礎においていた限りにおいて(かろうじて、ではあるが)バランスが保たれていたにもかかわらず、トレーナーの人間化により受講生の中で自身が他律的と化してしまい、バランスが崩れてしまうのである。第3章2節で論じた奥村の言う「セミナーの限界」は、セミナー空間が操作によって成り立っていることによるものだった。その限界が「いつ」訪れるのかについて奥村は述べていなかったが、それが多くの受講生に訪れるとすれば、このエンロールの段階だろう。もはやそれは、括弧にくくることのできない支配者として認識されるようになってしまう。本章1節において参照したリーダーシップの概念から考察すると、トレーナーはこの線引きによってリーダーとなるということになるが、それは「送り手」集団を代表するプロトタイプとは程遠い。また、「送り手」集団としての活性化のために圧迫を加えるリーダーでもない。トレーナーは集団内成員であるはずの(少なくとも受講生にはそう思われている)彼らを、「送り手」ではなく、「受講生」として扱い続ける。「受け手」という他との出会いで自らを「送り手」にカテゴライズする受講生らを、「受け手」として扱い続ける。これはある意味においては、複数の集合的アイデンティティ(受講生として、送り手として)のコントロールに失敗しているとも言える。

 一度認識のバランスが崩れてしまえば、セミナー会社の矛盾は掃いて捨てるほどある。たとえばトレーナーの「自己責任」という言葉にしてもそうである。トレーナーが「ルール」であれば、ただ、受講生に自己責任という意識を植え付ける存在であることができたものの、トレーナーが成員(受講生と同質であるはずのもの)であるならば、トレーナーもやはり、いや、他の集団成員の誰よりも、自分の行為に対し責任を持つべき存在である。小久保[2003c:21]が指摘した通り、セミナーのレトリックに従えば、セミナーを巡って起こる問題は、セミナー自身が「予定し準備し計画して」、つまりは「選択」して作り出してきたことになるのである。それを、受講生の自己責任で言い換えるのならば、受講生が疑問を持つのは当然である。セミナー外からすればごく当然のことであり、だからこそ「責任回避だ」として非難されてきたことである。受講生自身も、そのことに気付く者は当然存在するだろう。しかし、自分の経験を肯定するために、トレーナーもセミナー会社も「単なるルール」として見ないふりをしてきたのだ。(「見えなかった」という言い方もできるだろうが、受講生を「被害者」として捉えているわけではないため、そういった言い方は避けることとする。)それが新たなカテゴリゼーションによって、最初からあったはずのものをそこで目の当たりにすることになる。小池[1997:145]は「自己啓発セミナーの、自己の選択と責任という教えは、組織にとっては自滅的なものになりかねない」と言うが、あやうく保たれていたバランスが崩れると、まさにそれは組織としての自滅に向かう。最初からあったはずのものであるだけに、崩れ始めるとはやい。

 たとえばエンロールが報酬を伴うものであれば、そのバランスは保たれるかもしれない。「一方的に利用されている」という感覚は報酬というもので中和される可能性がある。報酬というものは雇用者と被雇用者の関係を対等な関係に保つものでもあるのだ。むろん、これまでの歴史で、そのことで支配-被支配の構造が作られてきたことは否定し難い事実である。だがその「営業活動」が無報酬となれば、これは報酬による支配構造よりも「奇異」である。セミナーによっては、第3段階に受講料を払わなくてはならない場合もあるのだ。となると、「お金をもらってやっているのか」という軋轢以上に、騙されて利用されているのではないか、という集団外からの疑念にもつながるだろう。だが報酬型にしてしまえば、まず「マルチ」や「ねずみ講」という非難を免れ得ないことになる。それだけではなく、「目的はあくまでトレーニングであり、新しい参加者の獲得はその副産物にすぎない」[石川 1992:171]という第3段階の意味と矛盾することになる。そもそも、上で書いたようにエンロールが「営業活動」であることすらセミナーは認めるわけにはいかないのである。

 こうして、サービスの送り手という新たなカテゴリー化によって生まれた不協和を、受講生がどう解決していくかで、その結果はふた手に別れることになる。すなわち、セミナー空間から離れ第2段階までの自分を本物と思い続けるか、トレーナーをリーダーとする「サービスの送り手集団」で「受講生の成長に貢献」し続け、貢献することこそが第1段階からの自分の目指してきたことなのだとするかである。そして前者を選択する割合が圧倒的に多いことが、「結果的に」自己啓発セミナーはただ通り過ぎるだけの、その場限りのものとしていく。ここに「事実的集団としての一時性」が現れるのである。

 だが、それは決して、最初から最後まで契約関係であったために、受講生が「今だけだから」と思い続けたために起こったことではないということは述べておきたい。自己啓発セミナーを通じて形成された集団は、持続的な関係を想定する集団であるがゆえに、そこに齟齬が生まれる。そして、結果的に「一時的」に身を置くのみで通過していくという受講生が多くなるのである。セミナーによる集団にとっては、エンロールは、それ自体が内包する、成員を取り逃がしてしまう「罠」である。(もちろんそれが「罠」であるのは、セミナーがその継続を望んでいる場合であるが。)エンロールというプログラムは、・・・・結果的に、セミナー会社が「株式会社」として、受講生との関係を「一時的」にしていってしまう。そしてその「事実的集団としての一時性」は、第2段階、そして第3段階に進んだ多くの受講生、そしておそらくはセミナー会社にとっても、決して望み続けた結果起こったことではないのではなかろうか。受講生がセミナー会社と「仲間」になるからこそ、その関係に亀裂が生じるというのは、皮肉なことである。


第4章第3節 ツールとしての責任~コントロールしないことを選択する


第4章 集団認知とその継続可能性

 第3節 ツールとしての責任──コントロールしないことを選択する

集団と「自律性」

 芳賀[2004:53]は、現代の個人主義的風潮の一部を成す「自律性」を絶対視する意識の高まりを指して、「親密な関わりを通じて、自己を確認しつつも、共同体のように密接な人間関係の『しがらみ』に縛られて、自由に自分の意志や欲望のままに生きられないという事態は避けたい」という意識があることを示している。これは、「自分の鏡」(自分がどのような人間かを教える役割を果たす)となる集団であっても例外ではないと言う。「本当のジブン」であることができる居場所であっても、第2章で述べた通り自律的な個人でありたいのならば、集団がその「自律性」を阻害するという点において、避けるべき存在なのである。

 だが、それでもそこを「居場所」として継続的に捉え続けることを成り立たせる理屈がセミナーには存在する。それが、「人生はすべて選択である」という、いわゆる「自己責任」のレトリックなのである。

 「自律型の人間」 は、社会の行動規範に同調するか、しないかについては、選択の自由をもっており、しかもその文化を超越することのできる人間として特徴づけられるが[Lukes 1973=1981:85]、このことは、目の前の集団の諸規範に対して、自分自身の規範や確信を持って行動できる人間が想定されていることでもある。セミナーはその論理を徹底化することで、受講生に、極めて受動的でありながら自律的であると信じさせることができるのである。

「人生は選択である」

 第3章でも述べたように、「自分の人生は自分に責任がある。ゆえに人生はすべて選択である」というセミナーのメッセージは、セミナー参加の条件となる初日のグランドルールの説明から最終日まで、一貫して伝えられていく。どういう経緯で参加したにしろその場にいるのは自分の選択であり、グランドルールへの同意、遅刻も、急病も、そして人生において出会ってきたさまざまな障害も自らの選択であるし、日常的な苛つき、絶望、怒り、屈辱すら、それぞれが、何らかの代償を得るために選択していると説かれるのだ。渡辺[2003:28]はその極端なほどの自己への原因帰属を「これまでの常識とは異なる新たな認知的枠組み」と捉えている。確かにそれは「白か黒か」(選択かそうでないか)の2項対立的な捉え方である点で日常的なそれとは異なるが、決してその責任論は受講生にとって真新しいものではない。そして、だからこそそれを受け入れざるを得ない、もう少し譲歩した言い方をすれば、容易に受け入れるのである。

 柿田[1999:106-110]のように、「『自己責任』という無責任」だと批判する者もいる。各社の受講申込書類に見られる「参加はあなたの選択だ」という記述について、特別に注意を促すこともないにもかかわらずこれが存在することで、たとえ勧誘中にトラブルが起きても「それは受講者が『自分の選択と決断』でしていることで会社には責任はない」と言うことができることから、これは責任逃れの仕組みだと言うのである[柿田 1999:110]。

 確かに「受講はあなた自身の選択ですね」と経営主体が口にすれば、それはそもそも後の言い逃れのために用意されたものだったのだと解釈されるのは決して不自然なことではない。また、経営サイドがそれを意図せずとも、結果的に受講者が「あなたが強要したのではないか」と言いたくとも言えないといった場面も十分に起こりえる。筆者の受講した基礎コースの最終日、次のアドバンスコースの説明が行われた際に「殻を破ったときに中のダイヤモンドを掴めず絶望してしまった例はあるのですか」と不安を訴える受講生に対しても、トレーナーはやはり、お決まりのように「あなたは絶望するご予定があるのですか」と答え、「絶望することを選ぶからこそ、絶望する」ことを示した。講義のみならず「次のコースの説明者」、すなわち「自社商品提供者」であるときにまでその論理を徹底してしまうとなると、受講者が実際に絶望したときの言い逃れと解釈されても仕方がないようにも思えた。「消費者」に戻っていたその受講生は、そう言われて苦笑いしていた。

 だが、受講者はまさに「自らが選択しているのだ」という価値観に同意することで、最終的に「本当のジブン」を我がものとするのである。ここでは「責任の所在が一体誰にあるのか」を議論するつもりはないが、少なくとも、受講者がセミナーを充実したものとする大きな「ツール」となるのがこの「責任」であるということは言える。

 自己啓発セミナー集団へ所属することは、常に自らの行為に「受動性」がつきまとう。樫村[1998:8]は「セミナーのやっていることは、成員共同体という支えによって可能となっていることを、自己単独によって達成された行為として錯覚していくことである」とし、自己の獲得をやはり「錯覚」という否定的な言葉で表している。だが、これは受講生にとっては、誰かに支えられていることを自分の力だと思うことができるということでもある。セミナーにおける自己コントロールの放棄、すなわちトレーナーのコントロール故に得られたはずの受講者たちの感動を、最終的に「本当のジブン」につなげる重要なキーとなっていくのである。それは、「責任」という言葉によって所属を個人の責任へと還元することで、受動性による行為すら生き生きとしたジブンの一要素となっていくことでもある。

受動的な身体と能動的な認識

 「騒ぐべきである」「笑うべきである」「泣くべきである」「責めるべきである」に身を任せる様子に見られる通り、セミナーにおける受動性は否定することは困難であり、一般誌・学術誌を問わず非難されてきた1つの大きなポイントである。トレーナーやアシスタントの指示に忠実に従っていく様子も、まさに受動的である。そしてそれこそが「本当のジブン」を手に入れるための方途であった。

 にもかかわらず、その場に自己を投入することを「選択」したのだというただ一点において「責任」が取られることによって、それら「無責任」な行為は・・・・最終的に彼ら本人のものになっていくのである。一方では、それらの行為は「入口」と「出口」において「責任」下にある(入口:その行為をすべきであることに同意する=選択する/出口:その行為によって得られた結果・成果を自分のものにする)。他方では、その間にはさまれた「身体」は「無責任」状態にある。これを自己啓発セミナー空間に当てはめてみるならば、以下のようになる。すなわち、トレーナー以下セミナーにコントロールされた状況を受動的に消費しながら(身体的無責任)、その状況を「選択した」と認識する(自己責任)という一点をもって、セミナーによって得られた成果、すなわち「本当のジブン」を最終的に所有することを許されるのである。

 それは「役割を・・・演じる」という水準を越えているとも言えるかもしれない。なすべきことを「役割」に依存して思考しながら、責任というただ一点によって、その成果を自らのアイデンティティの一部とすることができるのである。

多層的な認識

 つまり、自己啓発セミナーにおいては、「責任」と「行為・感覚」とが多層に重なっている。「感情」を「コントロール」から解放するべく「受動的」になることを、「能動的に選択」するのである。

 第3章2節においては、トレーナーおよび集団の正しさに身を任せることで自己をコントロールから解き放ち、それによって「コントロール不可能なもの」としてのジブンを獲得するのだと論じた。だが本節で論じたように、受講生はあくまでそれは自己が選択した結果であるという責任を取らなくてはならない。「コントロール不可能なもの」を自己コントロールから解き放ち、支配に身を委ねるということに、最終的には責任を持つ。それは選んで行ったことだ。そして、その責任を取るということはトレーナーの指示である。しかし指示に従うことも選択した結果である。

 それらは入り乱れ、終わりがない。もちろん、どこかに基準を置けば、セミナー空間は簡単に説明することができるだろう。トレーナーの支配を優位に捉えれば、受講生は「自分で選択した」とはいえそれはトレーナーの指示に源泉があると解釈でき、また「責任」というセミナーの価値も会社の責任逃れに還元される。すなわち、受講生は被害者となる。セミナーの説明する「観念の殻」というものを優位に捉えれば、セミナーを受講する以前に持っていた「こうするべきだ」も含まれれば、セミナーにおいて身につけた「責任」も観念の1つでしかないことになる。「責任」を優位に捉えれば、トレーナーに従属することも、固定観念にがんじがらめになって生きることも自分の選択ということになる。

 だが現実には、その空間において、また受講生の認識の中でそれらは次々に入れ替わり、ダイナミックに変化し続ける。「責任」と「無責任」が共存しているのである。受講生がおそらくは受講前には拒否していた「集団」の持つ束縛も、まさしく存在するにもかかわらず、受講生は自律的であり(と信じ)続けることができる。矛盾に思えるものが自己啓発セミナーにおいては成り立っている。それはセミナー会社の意図するところを超えており、そして全てを受講生個人に還元しても説明しきれないものであると言えるだろう。


第4章第2節 自己啓発セミナーの集団性~「本当のジブン」の居場所

第4章 集団認知とその継続可能性

 第2節 自己啓発セミナーの集団性──「本当のジブン」の居場所


  (1)自己啓発セミナー集団の「境界線」

 セミナーの受講生たちは、受講生同士で強い連帯感や仲間意識を持っていた。第1節でも論じたように、社会的アイデンティティ論および自己カテゴリゼーションによれば、集団の本質的な存立条件となるのは「価値」でも「相互作用」でもない。それは「成員性」つまり、自己カテゴリゼーションなのである。その視点から見たとき、自己啓発セミナーを通じた連帯感や仲間意識が、いかなるものであるかが明らかとなる。

「セミナーを受講した」という境界線
 社会的アイデンティティ論に則れば、集団にまず必要であるのは、たとえば感動を共有した経験ではない。その境界線はいかに引かれるのか。それは、その場にいるということ、すなわち、「その会社においてセミナーを経験した」という事実それだけなのではないだろうか。

 セミナーの重要なレトリック、たとえば「人生は選択である」ということに基づいてセミナーを経験する必要がないことをいくら主張したところで、「それならばあなたは受講する必要はなく、既に仲間(成員)だ」ということにはならない 。価値や理屈などといったものは、セミナーを受講したという明確な境界の中にいなければ、つまりセミナーを通じてわかったことでなければ意味がないのである。たとえそのレトリックを完璧にマスターし個々の行動について非難しようとも、受講生たちの「受けてみればわかる」という言葉に変わりがないのはここに原因がもとめられるだろう。受講の上でなければそれは「本当にわかっている」ことにはならないのだ。極端なことを言うならば、セミナーの理屈を全く理解せずともセミナーを受講していれば、つまり境界内にいることのみで集団内の人間と認識され、個々の成員の差異は看過されることとなる。

 自己カテゴリゼーションは、具体的な事象に裏打されなくとも存立し得るきわめて抽象的なものであるとされ[山田1991:142]、セミナー受講の経験の有無という「具体的な事象」は一見異質にも思える。だが、「真剣に取り組んだか」、「どのように経験したか」、「価値を理解したか」等の事実確認を必要としない点を考慮すれば、その「経験の有無」というものがそれ自体は極めて空虚な「外枠」でしかなく、・・・単なる境界線であることがわかり、自己カテゴリゼーション論の適用が相応しいと考えられるだろう。もちろんレトリックはその集団を魅力的なものとするために、そしてその魅力を享受するには重要な要素となるが、まずもって集団というものがここにおいて形成されることを示しておく。

「同じ会社で受けた」という境界線
 そのわれわれ意識を考察するには、特に「同じ会社で」経験したという点も重要である。確かに各社のセミナーのプログラムに似通った点があり、そこで受講者から聞かれる感想もある程度はカテゴリー化することのできるものだろう。(それすらできないとなると分析考察はほぼ不可能であることになってしまう。)だが、自己啓発セミナーの「集団性」を考察するには、その点に触れないわけにはいかない。

 井上が1992年1月15日に開催した「セミナー現象を再検討する座談会」(セミナーのトレーナー、セミナー経験のある非研究者も参加)[1992:33-66]では、エンロールといういわゆる「勧誘」のエクササイズのシステム化をめぐる議論の中で、「僕の出たセミナーでは……」、「○○社では……」など、自分の参加したセミナー会社の独自性を示そうとする発言が見て取れた。筆者も1980年代のあるセミナーの卒業生にセミナー体験を話した際、「マイルド化している」と指摘され、その効果を疑問視された。たとえば、時計をしたまま受講することについてトレーナーから何も言われなかったことや、居眠りしてしまう受講生がいたことなどである。時計をしているということは自分で時間を管理できるということを指し、効果が半減するというのである。正確にどちらがどうと論じることはできないが、その指摘の仕方は「自分の受けたセミナーの方が効果があったはずだ」と言いたいようにも取ることのできる発言だった。渡辺[2003:29]がグループワークでは「穏やかな共感で十分であるとする研究者」の存在を示す通り、感動体験それ自体は、プログラムのマイルド化によって損なわれるものがない可能性はある。だが、受講生にとってはその差異も重要な要素なのである。

 共通項があり、「自己啓発セミナー」という名で括られているとはいえ、それぞれに受講したセミナーはプログラムやそのスタンスなどにも微妙な差異があり、観察者にとってたとえそれが些細な違いであったとしても、自ら受講したセミナーのプログラムは「われわれ」と意識されている限りにおいて、他よりも価値あるものなのである。「自己啓発セミナー会社」として運営している企業は見受けられないため、他の企業でどのようなプログラムで行われているかなどは受講者が特別に調べない限りはわからないだろう。したがって他の企業の受講経験者と「われわれ」意識を持ちにくいのは想像に難くない。だがそれだけではなく、会場やトレーナーや各種のエクササイズなど、同質性を想像しやすいのが、この「同じ会社で」受講したという線引きなのである。社会的アイデンティティ論が示した通り、1つの集団の中の様々なレベルで集合的アイデンティティを持ち得る。いわゆる一般的な「自己啓発セミナー」を経験したことがあるか否かといったカテゴリー化もあり得るであろうし(そういった場に遭遇することは少ないだろうが)、そこではまた違う「集団」が生まれる。たとえば、第2段階を受講した者にとって第1段階のみの受講生は「他」ともなり得、「第2段階を是非受講してほしい」(境界内への誘い)という言葉にもつながる。たとえば筆者は、第1段階で「本当の自分を知った」と涙を流していた受講生に、第2段階のグラジュエーション時には「第1段階とは比べ物にならない、第1段階では、本当は自分を出してなかったことがわかった」と言われ、第2段階の価値を説かれた。したがってここでは、セミナー空間において受講生が認識する境界線が、「同じ会社で」受講したということも重要な差異化であるということを指摘するにとどめておく。

 一方では、たとえ同期として受講しておらずとも、同じ会社のセミナーを受けていればやはり「われわれ」意識が見られる。各段階のグラジュエーションに参加するのは、受講生の紹介者など受講生本人と関係のある者だけではない。「かつてセミナーに参加した」という理由で「とにかくお祝いがしたくて」と駆けつける卒業生もかなり多かった。自己啓発セミナーとの関係を保ち続けるという意図も本人にはあるだろうが、同じ会社で同じ(と思われる)経験をしたというそれだけで、「後輩」のコース修了を祝いにくるのだ。

 たとえ観察者が、セミナー会社の枠を超え「第3段階まで修了した卒業生」というカテゴリーで括ろうとも、その卒業生が、セミナー会社の枠を超え、他の会社のグラジュエーションに「お祝い」に行くことはないだろう。ある会社のセミナーを熟知したトレーナーであってもやはり、「同業他社」セミナーの受講生は、そのトレーナーに対し「この会社のセミナーの良さは受けてみないとわからない」と言うだろう。

差異化──境界線の強化
 本章1節で述べた通り、集合的アイデンティティを強化するためには、集団内と集団外との区別を強化する必要がある。その道具となるのが、共通の価値・信念の強調、各種の儀礼の実施、統合的なシンボルといった「文化的な諸要素」だった。それは集団内外の区別に結びついていることが条件であったが、その点において、自己啓発セミナーは非常に巧妙に文化的な要素を使っていると言えるだろう。
第1に挙げられるのは、その中でしか通じない用語である。ダイアードといってもセミナー外では何を指すのかわからないだろう。シェアという用語についても、(一般的な「共有」という意味ももちろんあるが、)通常は、「さあ、シェアしましょう」という言葉で「他者の前で自分の感じたこと、考えていることを述べる」という意味だとは取らないだろう。こういったアメリカ生まれのセミナーらしいカタカナ用語もあれば、日本語でもセミナー独自の不思議な用語が使われる。ライフダイナミックスの「イヤ感」というのもそうであるし、相手の発言を聞いたという意味の拍手を指す「承認」というのも、日常会話で頻繁に使う言葉とも思えない。

 第2には、エクササイズの意味の共有もある。なんといってもこれは、「選択の実習」であろう。街中で突然指を4本立てて、それが「抱擁」を意味すると解釈するのは、セミナー経験者かセミナーをよく知っている人だけだろう。

 さらに、これはセミナーが明示的にその意図を示しているわけではないが、高額な参加費すら、境界線の強化に役立つものだと言えるだろう。参加費はマスコミのみならず研究においても多くは非難される点である。筆者も、参加費が「必要経費」なのかは確信を持てない。だが、高額な参加費は受講生の認識に影響を与えていることは間違いないだろう。「これはいいものだと自信を持っているから高いのだし、高いことはいいものの証拠だ」というのは健康食品などのセールストークでよく聞かれる言い回しである。高額であることがその商品の価値を信じさせる1つの手段となっているのである。セミナーの受講費は「詐欺ではないか」という疑いが抱かれるほどの高額であるため、それがそのまま商品の価値を信じさせるには至らないかもしれない。だが、「これだけの参加費を支払ったのだから、何かを得て帰ろう」と積極的な姿勢につなげる受講生も少なくない。そして、「高すぎる」とすんなりは受け入れることができなかったという経験は、「それでも参加した」という認識につながることもある。これは「境界線の強化」という側面から見てやはり重要であろう。もちろん、成員性は本人が受講したのちにあらわれるものであるため、受講前から集団の境界線として認識していたという意味で述べているのではない。だが、のちになって「セミナーを経験した」という境界線を際立たせるときには、高額な参加費を乗り越えたという経験が影響を与えることもあるのだ。

 その他、エクササイズで「何を得たか」について次々に言葉にさせるのも、セミナー前の自分とセミナー後の自分(つまりセミナー経験の有無という線上にいる2種類の自分)を「違う」と認識させることにつながっているだろう。ここで初めて気付いたのだという繰り返しは、自ら、以前の自分との差異化をしていることになるのである。

集団の境界──トレーナーは成員か
 第2章では、自己啓発セミナーの集団性を考察するにあたって、どの行為者を成員と捉えるか(特に受講生同士の関係)の重要性を示した。そして本章では自己カテゴリゼーション論による集団の定義に従って、集団の境界を「セミナー受講経験の有無」と定めた。ここで1つの論点について明らかにしておかなければならないだろう。それは、トレーナーという存在である。

 第3章において論じた通り、セミナーという場においてトレーナーの存在はあまりに際立ったものである。それを3章では「異質な存在」とした。津村[1998:189]は、その場におけるトレーナーという存在は「ある種の権威者・支配者となり、グループをコントロールする存在」になっている可能性があると指摘し、それを元に自己啓発セミナーを批判している。だが一方で、(繰り返しの引用となるが)操作性や演出について受講生は、「馬鹿じゃないので、演出していることは分かっています」[:193]と答えている。受講生にとってトレーナーは、プログラムを与える指示者であり、従わなくてはならないルールそのものなのである。これは、受講生がトレーナーを明確に「異質な存在」つまり、「集団」の外側にいる「他」として捉えている状況を表しているとは言えないだろうか。トレーナーはセミナーの卒業生であるケースが多いため、そういった意味では受講生がトレーナーを成員として捉えるかは難しいところである。だがそれはあくまでも観察者視点だろう。受講生にとってトレーナーは教師にも近いものである(そもそもセミナーの講師なのだが)。「昔は先生も高校生だったんだ」という事実によって生徒が教師とわれわれ意識を持つとは考えにくいであろう。基本的には、第3章でも述べた通り、トレーナーは括弧にくくられていると考えられるが、たとえばトレーナーのあまりの圧迫に反感を持つものもいるだろう。たとえば「みんな負けずに頑張ろう」となれば、それは明らかにトレーナーという「他」と「自集団」との間に線を引いていることになる。

 「同じセミナーを受講した」という境界線による集団にとって、その線を際立たせる「他」とは、「セミナーを受講していない人(人々)」であり、「他の会社で受講した人(人々)」であり、「受講前の自分」であり、そして「トレーナー」でもあり得るのだ。


  (2)「本当のジブン」の居場所──非日常の標準化

 前項では自己カテゴリゼーション論を元に、自己啓発セミナーにおける人間の集合が、どういった境界をもった「集団」であるのかを論じた。本項ではさらに、その「集団」が、「心の拠り所」、つまりある意味での共同性をもって現れることを論じることとする。

いってらっしゃい/おかえりなさい
 第1段階では、休憩時間になるとセミナールームは閉鎖され、受講者は廊下やホールで休みを取ることになる。トレーナーおよびアシスタントは「いってらっしゃい」と声をかけ、休み時間が終わると「おかえりなさい」と出迎える。第1段階終了後のインタビューになると、会社に到着すると受講生は「おかえりなさい」と声をかけられ、「いってらっしゃい」と見送られる。これは、セミナーこそが「帰る場所」であるという演出(アシスタントにとっては演出ではないかもしれない)にあたると言えるだろう。むろん、だからといって即座にその場が演出通り「帰る場所」として認識されると言うわけではない。むしろ違和感すらあるものである。だがこの言葉には、受講生を継続的にセミナーに関わらせようというセミナーの意図が見られると言えよう。

第2段階受講の選択
 第1段階の大部分では、いかに第1段階を充実したものにするかということに力点が置かれる。たとえば筆者の受けた3日間のセミナーでは、その日どのような気づきがあり、それを踏まえて自分を成長させるためにはこの3日間のベーシックコースでどう行動していくかということを書いて提出することが、1日目、2日目の「宿題」であった。だが、徐々に話は第2段階の話になっていく。もちろん、各社でどの時点にその話を始めるかは異なるだろうが、少なくともコース終了後のインタビューやポストセミナーでは第2段階へ進むことを勧められることになる[石川 1992:143]。

 筆者の参加したセミナーでは、最終日の午後、エクササイズを1つ行ったあとに第2段階がどういった位置付けであるかが説明された(プログラム内容についての説明ではない)。第1段階では、自分の中で観念の厚い殻に覆われた「ダイヤモンド」の存在に気づき、その殻にヒビをいれたのだとされ、第2段階はその殻を破る(「ブレイクスルー」と呼ばれる)段階だと説明される。最終日午後のエクササイズの少なさから考えると、その説明にはかなりの時間が割かれていることになる。それは、第1段階で気づきを得ても、殻を破らなければ意味がないと言われているようにも聞こえた。全コースを体験した芳賀も、第1段階について(レクチャーの比率が多いことを指して)「感動的な要素にも乏しい」ため「参加者にとってはつらい時間」[芳賀・弓山 1994:170]や、「何か少々もの足りない気持ちを残してベーシックセミナーは終了する」[芳賀 1998:128]などと表現している。(それが事後的な判断である可能性もある。)

 もちろん、第2段階の受講もやはり「自己の選択」と考えられているので、受講は強要されるわけではない。小久保[2003b:17]も述べている通り、第3段階について批判する参加者ですら第1段階については「感動した、よかった」という感想を抱くものも少なくない。アドバンス受講を選択する者の多くは「素晴らしい」自分を実際に手にしたいと「自然に」思うようになり、第1段階の感動を肯定するためにも、自ら受講を選択する。それは、渡辺[2003:29]が説明する通り、フェスティンガーの「認知的不協和」理論で説明することができるだろう。たとえば吉田[2003:114]は、あくまでも義理として来ていることを強調し不快感を示す受講生を「来ていること自体をスティグマ化することで不協和を解消しようとしていた」と分析する。内容もよくわからないまま、人によっては「あやしい」とすら思って参加した者は、そうしてセミナーにおける自分を統制する。ところが、強烈な感動に涙してしまうと、逆に、それをないことにはできない。それは身構えていた受講生ほど強いかもしれない。そこにおいて「第2段階受講が第1段階での感動を肯定する証」ともなれば、第2段階へと進むのが自然であるという状態が作られるのである。

 「強要」という言葉で表すと、あたかも経営主体の1人であるトレーナーが一方的に選択を迫っているように思えるかもしれない。もちろん、選択を迫っていること自体は否定し難い事実である。だが、注目すべきはむしろ、既にアドバンスコースを経験したアシスタント(あくまでも無償である)が勧め、受講者同士でも受講することを勧め合い、あたかもアドバンスコースに進むのが「正しい」道であるかのような雰囲気が作られる点である。たとえば筆者の参加したセミナーでは、第2段階を受講することを決めたと宣言した受講者は、他の受講者に拍手で賞賛された(セミナー中の拍手は「承認」を表すが、「偉い」という言葉とともに送られたこの拍手は明らかに「賞賛」であった)。次の段階の受講の決意は、それがもし「強要された」としても、それはトレーナーによるものというよりは、他の集団成員によるものであると言うこともできる。(ちなみに、「強要された」という「イヤ感」すらセミナーにおいてはあくまでも選択なので、このレトリックに従えばたとえ強要されたと認識しても、やはり「自ら選択したのだ」を認めざるを得ないことになる。)

本当の場所はどちらか
 樫村[1998b:29]は「人工的・操作的に出現した共同体が失われた共同体の本態であるという錯覚を生みやすい」と言う。それは、フィードバックや評価において収束性を見せることに、ふだん見失われていた共同性を見いだすことによる。

  セミナー外の人々は弱さによる防衛によって、このような真の評価ができないのだろうという信念を生むことになる。世間は建て前であり、セミナーは本音の世界なのである。[樫村 1998b:29]

 セミナー受講前には、普段の生活が標準でセミナーは非日常空間であるはずだ。そして非日常空間であるからこその感情表出である。ところがその感動は、セミナーという場を「本当のジブン」の居場所として認識させることにもつながる。セミナー外での生活の方がセミナーと関わる時間よりも長くても良いだろう。さらには、セミナーという場が・・・・・・非日常のままでも構わない。受講生がセミナーを終えたあとにポツリとこぼされる「突然、現実に戻ったみたい」、「どこか別の世界に行っていたような気がする」[柿田 1991:104]という言葉や、筆者自身が目の当たりにした、グラジュエーションにかけつけた卒業生の「明日からまた現実だなあ」と笑って語り合う姿も、これを示している。たとえ非日常であっても、セミナーや共にセミナーを受講した集団成員と共有する場は「本当のジブン」に出会えた場所である。だからこそ、他のどの場所よりも「本当」なのだ。たとえアシスタントやインタビュアーなどとしてかかわらずとも、そこに帰れば本当のジブンにまた出会えると考える者もいるだろう。

 樫村はセミナーが現実と切断されていないがためにセミナーと現実世界での葛藤とその「幻想」が解体したときの危険性を示しており、上記のような「錯覚」に関しては非常に批判的である。逃げ場もアフターケアもないセミナーは、オウムのようなカルトにはまっていく可能性が高いとすら言っている[樫村 1998b:32-3]。その評価は留保するが、ここにおいては、「非日常の標準化」が起こっているとは言えないだろうか。

 感動体験を共有することによって強い仲間意識を持った結果、セミナーを通じた人間関係を心のよりどころとしていく受講者は少なくない。そうして、「受講者の成長のために」無償でアシスタントやインタビュアーを引き受けるようになっていく。石川[1992:171-2]も、スタッフの多くが元はといえばセミナーの参加者であり、単に通過するのではなく、いつまでもそこに留まろうとすることを指摘している。だからこそ、基本となる3段階にプラスして、トレーナー養成コースやセミナー卒業者向けのワークショップなどが用意され、つまり、留まりたい参加者に居場所を提供しようとするのだ[石川 1992:172]。第2章でも引用したが、杉山[2004:105]は、この石川の指摘を受け、「勧誘を積極的に行うことでセミナー企業の側に身を置くこと、場合によってはスタッフとなって働くことは、参加者に変則的な形で共同体を提供しているといえないだろうか」と述べていた。

 さらに第3章で述べた通り、紹介者の存在によって、セミナー体験が日常に活かされるというよりはむしろ日常がセミナーに取り込まれていくと論じた。それもさることながら、グラジュエーションだけとってみても、受講者の紹介者のみならず、その紹介者の紹介者、またその紹介者と、セミナー体験を共有した者たちが一堂に会するのである。アシスタントはもちろん継続的にセミナーに関わり続ける卒業生の典型である。だが、セミナーとのかかわりの強弱はあるにせよ、「その場限り」だったはずの自己啓発セミナー集団は、感動体験の共有という魅力によって受講者やセミナー卒業生たちの一種の「拠り所」として継続して機能するようになるということが言えるだろう。

 ここにおいて、上記の「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」は単なる演出ではなくなる。「非日常」として享受されていたはずのセミナー空間は、日常から「いってくる」場所であったはずなのだが、そこにいるジブンこそが「本当」であると認識されることで、(たとえ「非日常」のままだったとしても)「かえる」場所、つまり「標準」へと反転するのである。


1 | 2 | 3 | 4 | 最初次のページへ >>