終章 自己啓発セミナー研究の可能性 | 自己啓発セミナーの語られかた~集団内の自律と他律をめぐって

終章 自己啓発セミナー研究の可能性


終章 自己啓発セミナー研究の可能性

自己啓発セミナーの語りかた

 スピリチュアリティ研究は、その領域の行為者に対し愛のある領域だと筆者は認識している。いくら当人たちが「宗教は嫌」と言おうと、宗教の、特に機能的な定義に則って彼らを振り分けることはできたはずである。にもかかわらず、「宗教はちょっと抵抗あるけど」という行為者の「気持ち」を汲み取ったという一面を持つのではないだろうか。明確な信仰共同体かゆるやかなネットワークか、といった対置の中にも、それが行為者にとって魅力的であるか否かといったことまで含めた図式である。そうして様々な現代的な現象が「スピリチュアリティ」として語られてきた。それは、「従来の“宗教”では説明しきれないものを」という、ある種「対応策」といった側面が強いことにもよるだろう。だからこそ、現在のスピリチュアリティ研究は、「対応策」を抜けるべく概念を確定的にしようという段階にあるのではないだろうか。

 そういった意味で、本稿は、一見してスピリチュアリティ研究の概念画定に貢献するものとは対極のものとなってしまったように思われるかもしれない。というのも、スピリチュアリティを含む新霊性運動=文化の区分けを参照しながらも、最終的にその区分けに則った分析考察をしたわけではないからである。それは、スピリチュアリティの文脈で語られながら、それとして論じて良いのかという議論に晒されてきた自己啓発セミナーを「どちら」と判断するには、スピリチュアリティの類型や概念は曖昧であったことによる。共同体とゆるやかなネットワークという対立も、「ネットワーク志向」というよりは、反-共同体の側面ばかりが目立ったように思う。

 そこで筆者が採用したのが、社会的アイデンティティ論、および自己カテゴリゼーション論による「集団」の概念だったのだ。元は社会心理学の潮流ではあるが、個人に還元され得ない「集団」を想定するというその姿勢は、社会学にも非常に親和的であると言えよう。さらにそれは、集団の存立条件をその個人の「成員性の認知」に求めたという点で、スピリチュアリティ研究にも親和的なものではないだろうか。スピリチュアリティは、そこに共同性があるとはいえ、それが(基本的には)個人単位で行われるため、その行為者にきわめて近いところで現象を分析していく必要があるだろう。そういった場合に、個人の中に集団を見るという上記の2つの理論は個人を非常に重視するスピリチュアリティへの貢献可能性を秘めていると言えるだろう。

 上記の共同体の拒絶およびネットワーク志向から、自己啓発セミナーに関連する部分、すなわち、集団的な束縛、閉塞感の忌避と「自律性」志向だけを抽出してしまったのは、あまりに単純だったかもしれない。だがそうして、行為者が集合的にどういった志向を持つかを解釈し、そこからアプローチしていくという姿勢から、自己啓発セミナー空間を生き生きとしたものとして描くことができたと思っている。たとえば、成員性の認知として集団性を見ると、「自律性」志向と葛藤する姿もあり、また自律性の過剰故の集団依存も見受けられた。その中では他では見られないほどの他律と、それでも「自律性」志向であり続ける姿があった。これは、たとえば自己啓発セミナーの受講生は「他律的である」と判子を押すことでは得られない回答であると言えるだろう。

 とはいえ、本稿の主題は自己啓発セミナーであり、スピリチュアリティ研究も、自己啓発セミナーを語るにあたって必要な範囲で触れたものである。だが、上記のような行為者の認知の重視は、自己啓発セミナーを対象として語る上では特に、必要な態度だと筆者は考えている。「操作」に基点を置いて全てを解釈すること、「責任」に基点を置いて全てを解釈すること、たんなる「お祭り騒ぎ」として解釈することなど、どれか1つを選択すればひとまず説明しきることができる。だが、そうして全体を捉えることはできないというのが、本稿の筆者としての1つの結論である。

「自己啓発セミナー」のゆらぎ

 「自己啓発セミナー」という言葉は、セミナー会社によって積極的に名乗られてきたものではない。その呼ばれ方も「自己啓発セミナー」のほかに、「自己開発セミナー」、「人格改造セミナー」、「精神修練講座」などと様々である。「自己開発セミナー報告」と題されたものが、中身はエンカウンター・グループの報告であることもある 。呼称が安定してきたのは1990年後半である。にもかかわらずその輪郭は、既にゆらぎ始めている。

 筆者が受講したセミナーは(細かい点に違いは見受けられるものの)ライフダイナミックスのプログラムを受け継いだものであるが、まさにその「ライフダイナミックスを受け継いだ」という点からしか「自己啓発セミナー」だと判断することはできない。芳賀[1998:127]が「バブル経済の到来とともに、急拡張した自己啓発セミナーは、その終焉とともに、多様な方向への転身と融合の時代を迎えている」と言う通り、カウンセリングや企業研修など多様な方向へと分化していっている。多くの研究者が経験してきたiBDのプログラムに多大な影響を受けているからといって、コーチ21はコーチングの会社であり、自己啓発セミナー会社ではない。ライフダイナミックスから受け継いだプログラムを多く含むからといって、「日本創造教育研究所」は企業研修会社であって自己啓発セミナー会社ではない。当初よりその境界線が曖昧であっただけに、もはや、これらのセミナーは「自己啓発セミナー」という現象としてまとめるのは難しくなっているのである。

 「自己啓発セミナー」の輪郭がゆらいできたことのみならず、実際の受講の数やマスコミ報道の数からしても、「自己啓発セミナー」それ自体は「流行」しているとは言えない。だがそれでも、今も確かに存在する自己啓発セミナー空間は、きわめて現代的な空間である。いや、自己啓発セミナーが基本的なプログラムやメッセージを変えていないとはいえ、そこで作られる効果や関係は受講生の性質によって変化する。最も単純には、コントロールが弱い時代にはセミナーは「責任を取る」ことを受講生に強調する場として理解され、コントロールが強い時代にはその場は「解放」として理解され得るだろう。したがって、それが存在する限りはいつでも現代的な空間になり得る。そういった意味では、自己啓発セミナーで言われる「セミナーを作るのはあなた方受講生です」というのはあながち外れてもいない。

 一方で、それは相変わらず特異であり続けている。(流行が過ぎたがゆえにますますそれは特異かもしれない。)受講経験をもつ筆者がもし「その場にいれば皆泣くものだ」とそこでの行動が「普通」だと主張したところで、「はまってしまった」と思われるだろう。筆者自身、私が経験していない第2段階以降の様子を体験ルポ等で読むと、つい「理解し難い」と感じてしまう面がある。そういった意味で、いくらその感動のメカニズムが一般論で理解され得るようなものであっても、セミナー空間はやはり特異なのである。そして特異であることこそが、経験の有無という境界線をより強固なものとし、社会的アイデンティティを作り上げる。


セミナーのマイルド化

 第1章3節で、1991年の時点でマイルド化が指摘されていたと述べた。最後ではあるが、今後のセミナー研究の可能性を示すべくこれに関連して書いておきたい。

 小池[1997:142]は「セミナーでは参加者全員が主宰者の思惑通り感動するわけではなく、また、全員がうまくセミナーの論理を受け入れるわけでもない。初日や2日目で脱落する参加者も必ずおり、最終的には計10人弱の脱落者が毎回出ている(全体の1割前後)」と述べている。脱落者の存在は体験ルポや雑誌記事を見てもよく示される。そしてその存在は、「残った自分たちは頑張ろう」という連帯感を高めるようなものでもあったろう。そういった中、筆者の受講したセミナーでは1人も脱落者はいなかった。「みんなで最後まで頑張っていこう」という連帯感、またそうして支え合うことをトレーナーが促すような発言ももちろんあったが、そこには「誰かが脱落する」という切迫したものすら感じられなかったように思う。ある1人が時間になっても現れないことに、受講生同士で青い顔を見合わせた程度である。グランドルールの説明の時点で同意できなければ退出するようにというトレーナーの言葉にも「まだ始まってもいないのに退出するものがいるわけがない」というのが素直な感想だった。もちろんそれが「セミナーが素晴らしかったからだ」と主張するつもりはない。また筆者の受講したたった1社の1回の経験だけが証明になり得るはずもない。だがこれも、「マイルド化」なるものの可能性を示す1つではあるだろう。

 時計をつけていても何も言われない、周囲に緊張が走るとはいえ居眠りをする受講生もいる。脱落者もいない。けれど、「泣ける」。筆者の立場は、たとえマイルド化が進行していたとしてもセミナーの効用は基本的には変わらないといったものではあるが、筆者がセミナー集団の継続の限界の可能性を見た「勧誘」がなくなり、企業一括受講(日本創造教育研究所のオーナー会員制度など)になればどうなるか。あるいは、企業に出向き、知り合いばかりで行われるセミナーには「匿名性」はないが、それで得られる効果はどのようなものか。これまでセミナーに必須だとされていた要素が次第になくなって行き、単に「マイルド化した」というよりは、もはや輪郭すら掴めない。「セミナーは基本的にはどれも同じだ」とはもはや言っていられないであろう。可能であるならば、今後の自己啓発セミナー研究はそういったプログラムの差異に焦点を合わせていくべきではないだろうか。

 セミナー現象は、輪郭こそ掴みにくいものであるが、今しばらくはニーズはあるものであろう。この研究の蓄積が、今後コーチングや新人研修など、セミナーが直接的に源流となっているものの研究へとつながっていくことを期待している。