自己啓発セミナーの語られかた~集団内の自律と他律をめぐって -4ページ目
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2006年05月24日(水) 16時29分50秒

第1章 第1節 自己啓発セミナー概要

テーマ:修論
第1章 自己啓発セミナーとは何か

 第1節 自己啓発セミナー概要

  (1)日本における自己啓発セミナーの系譜

自己啓発セミナーの日本上陸と流行

 1970年代はじめにアメリカで生まれたとされる自己啓発セミナーは、70年代後半に日本に上陸し、80年代末から流行した[小久保 2003a:6]。日本において自己啓発セミナーと呼ばれるものは、ライフスプリング系とest系に区分されると言われる。柿田[1999:19-20] が前者をゲーム型セミナー、後者を講義型セミナーとしている通り、ライフスプリング系では身体を動かしてのエクササイズがメインとなるのに対し、estでは、禅の影響を強く受けていることもあってか椅子に座ったままトレーナーと観念論的な問答をする時間が長い[小久保 2003:7]。

 est(正式名称:エアハード・セミナーズ・トレーニング)自体はその過激な内容や商売方法などに批判が集まり、1985年に内容を改め「フォーラム」として再出発した。その頃日本にも上陸し、1991年より「ランドマーク・エデュケーション 」と再び社名を変更している。上記柿田の著書である『自己啓発セミナー──「こころの商品化」の最前線』(共産党機関誌「赤旗」がまとめられたもの)で内容が批判的に紹介されるなど、マスコミ報道が盛んだった頃からの有名セミナーでありながら 、2005年時点も同じ社名で世界的にセミナーを開催し続けている稀有な存在である。オープンセサミというセミナーはその幹部が始めたという説もあるが[塩谷 1997:160]、その観念論的な問答の模倣が難しいことからか、100とも200とも言われていた日本でのセミナーの草分け的存在とされるのは、ライフスプリングの系統にあるライフダイナミックスであり、数が多いのも同社から分派したものである。ライフダイナミックス系の会社のトレーナーがestのプログラムを参考にするケースもあるが、基本的な形態はやはりライフダイナミックスのものであると言えよう。

 1974年にアメリカで設立されたライフスプリングは、現在の自己啓発セミナーのコースの3段階方式を作った会社である 。この設立にも関わったロバート・ホワイトが初めて来日したのは1973年だった。言語的な問題もあり1度は断念されたものの、その後ホワイトは知人の日本人に誘われ、ライフダイナミックス設立に携わることとなる。『心をあやつる男たち』[福本 1993:168-9]でも紹介されている1978年の雑誌記事 によれば、ロバート・ホワイトの協力の下、東京で在日外国人向けに「ライフダイナミックス」の英語のコースが始められたのが1977年7月、日本語のコースが始められたのが1978年4月であるとされている。この記事は1978年11月のものであるが、それまでに同社のセミナーを受講した日本人は約300人、その後1993年には9万人近くが受講したとされた[久保 1993:195]。当初は、エリート・サラリーマンや青年実業家などのみが参加する極めて規模の小さいものであったが、1980年代後半には学生・OL・サラリーマン・主婦など広範な層に拡大したのである。そして2001年までの間には、業界全体で、およそ20万人前後がセミナーを受講したとも推測されている[小池 2004:230]。マスコミ報道で取り上げられる頻度が多くなっただけではなく、まさしくそれは人が人を呼び流行していたと言って良いだろう。

 ライフダイナミックスを主宰する「ARCインターナショナル」は日本では最も古く、そして集めた受講生の数から見ても最大手だった。しかし既に述べた通り、セミナー卒業者が同社のトレーナーとして会社に入ったのち独立して他の会社をつくるといった形で拡大していったこともあり、業界での同社の存在は単なる最大手という意味を超えて重要である。BeYou、iBD、サミット、シナジー、オリジンなど、「雨後の筍」のように増えていったセミナーも、独自の色を出そうという工夫にもかかわらず、基本的にはライフダイナミックスと同じなのである[久保 1993:195] 。雑誌記事での非難につながるきっかけになったとも言われる『人格改造!』[二澤 1990]はきわめて詳細なセミナー体験記だが、この中で著者が参加しているのもライフダイナミックスである。

現在の自己啓発セミナー会社

 バブル崩壊とともにセミナー会社の多くは事業の大幅な縮小を行い、ライフスペースやホーム・オブ・ハートの事件も手伝い、セミナー主催企業数は20~30社に減少した。上記のARCインターナショナルも受講生を集められず1999年に活動休止し、2000年に解散している。1998年に解任された代表が同年教育技術研究所(略称ETL)という名前で新たに会社を設立したのがARC最後の直系分派であるとされる。現在の主要なセミナー会社はその教育技術研究所を前身としたETLジャパン (2001年改称)を含め、「日本創造教育研究所」 、「メディオス」、「ウィキャン 」などが挙げられる。しかし、旧来のスタンダードなセミナーは大方姿を消し、目立つのはセミナーの目的を「成長」という抽象的な言葉ではなく、より実利的なものに絞ったものである。たとえばそれは、「企業の活性化」であり、就職を控えた学生に対象を絞り込んだ「就職セミナー」などによる「自己分析」である[小池 2003:25]。イベント実施やCD作成といったものもある[小久保2003a:8]。2005年現在業界最大手と言われる上記の日本創造教育研究所も、プログラム内容はライフダイナミックスに酷似しているがやはり「企業研修」を標榜しており、その用語やコースも企業向けのものとなっている。また、大手自己啓発セミナー会社であったiBDの関係者は、コーチ21や日本コーチ協会を設立し活動を行っている。iBDとコーチ21を設立した伊藤守は、近年は『コーポレート・コーチ』(2005、ディスカヴァートゥエンティワン発行)など、コーチングに関する著作を多数出版している。

 以上の通り、1990年前後の爆発的な流行からしてその後セミナーでの経験を様々な形で活かす者も少なくないことが予測されるため、正確な数を把握することはできない。(もちろんそれは流行当時も同じである。)

 企業研修会社である日本創造研究所は、かつての典型的なセミナーとは異なり、受講生集めが個人同士のつながりを利用したものではなく中小企業の社長に社員の一括受講をすすめる形で行われている。そういった企業一括受講は自分の意志でない参加者の増加につながり、就職セミナーは参加者の低年齢化を意味する[小池 2004:25]など、これまでとは違う点が問題視されるようにもなってきている。


  (2)受講生のタイプ

参加者基本属性

 1991年11月から12月にかけて郵送方式で実施された「気づきのセミナー参加者アンケート」 [井上 1992:94-101]で参加者属性を概観してみよう。まず年齢は、最も多いのが30代(45.1%)で、20代(22.4%)、40代(21.5%)がそれに続く。性別は、男性が45.0%、女性が54.5%でほぼ拮抗している。職業は、最も多いのは事務・技術的職業で、43.4%である。ビジネスマン、OL、公務員、SEなど都市部のホワイトカラー層が大半だが、看護婦、保母、教師、福祉施設職員、医師など、人とかかわる職業の従事者も目立つと言われる[石川 1992:145]。学歴は、大学院修了23.0%を含めると、四年制大学卒は53.4%にものぼる。

参加者のタイプ

 芳賀は参加者のタイプをその動機によって4つに分類している[芳賀・弓山 1994:159-160]。好奇心型、②向上心型、③きずな型、④しがらみ型の4つである。

 ①の好奇心型は「おもしろそうだな」と興味を持って自ら参加を決めるケース、②の向上心型は紹介者の変化を見て、嫌悪すべき現状から抜け出すべく自己投資するケースが典型的であり、これらは「積極的動機」である。一方で③と④は受身的な動機である。③のきずな型は勧誘が重要な他者(家族・恋人・配偶者・親友など)から行われるため、気乗りしないが円滑な関係を保つべく参加するケース、④のしがらみ型は、③の傾向がより明確になり、たとえば職場の上司などから勧誘され、なかば強制的に参加させられたというケースを挙げて説明されている。

 いずれのタイプであっても、「うまい方法でだまされたり、参加しない人々より深刻な事情を抱えているわけではない」[芳賀・弓山 1994:160-1]ことを芳賀は強調している。石川[1992:146]はこのことについてさらに、「参加者はヒーリング・ニーズを自覚し、それを治療するために、あるいは治療してもらうためにセミナーに参加するというよりは、ヒーリング・ニーズはセミナーの中で発見されるという面が強い」と述べている。やはり、セミナーに参加する者が参加しない者よりも多く傷ついているかは疑わしいと言う。2000年9月から2001年8月にかけて自己啓発セミナー受講経験者307名を対象にインターネット上で行われた『自己啓発セミナー実態調査』 では、受講動機(複数選択可)で最も多かったのは「以前から悩みがあったから」であるが、それもセミナー受講を決め、実際に受講したことによって作られたものとも考えられるのである。

 対照的に、参加者について「能面のように無表情な顔つきをしている人が多い」[井上 2000:221]と言うように、井上[1988,1993:87]は自己啓発セミナーの、競争社会の中で傷ついた人に安らぎを与える社会機能を指して「ルサンチマン処理産業」と名付けている。井上は現代日本人の内面に「ルサンチマン」が渦巻いており、セミナーはそれを処理する機能があるとしたのである。芳賀は、受講生は深刻な事情を抱えているという雑誌などでの「憶測」と実際は異なると言うが[芳賀・弓山 1994:160]、研究者では、むしろ井上のように「傷ついた受講生」を想定する方が少数派であると言えよう。1992年のセミナー経験者による座談会[井上 1994:33-66]では、「ルサンチマンを解消する」という参加者像に疑問を抱く発言が多く出されたが、それが、事実特別な悩みを抱えている受講生が少ないことによるものなのか、「受講した自分は可哀想な人間ではない」という主張なのかは判断することができない。


  (3)自己啓発セミナーのメッセージ

 自己啓発セミナーで伝えられるのは、おおまかに言って以下の3点である[小池 1997:140-143; 樫村 1998:215; 芳賀 2004:38]。

① 人間は誰でも皆、「素晴らしい」本質(「可能性のダイヤモンド」などと呼ばれる)、または「潜在能力」を内蔵している。

② それにもかかわらず人々は、成長途上に出会った経験を通じてコンプレックスや世間体などの夾雑物(「観念」や「プログラム」などと呼ばれる)を身につけ、「本質」のまわりに汚れのように付着し、フィルターを通して世界を見るようになっている。

③ 自分の人生は自分に責任があり、ゆえに人生はすべて選択であるため、今の自分は自らの選択で決めてきた結果であるし、一方では、自らの意思次第で自己の殻を打ち破ることを選択し、目標や可能性を実現することができる。

 「セミナー」というからにはこれらのメッセージは講義を通じて教えられていくように思われるかもしれない。筆者の経験したセミナーでもダイヤモンドとそれを覆い隠す観念の殻については講義を通じて説明された。だが、直接的な説明よりもゲームや受講生の発言に対するトレーナーのコメントなど、様々な場面にこれらのメッセージがちりばめられているのが自己啓発セミナーの特徴的な点である。先述した通りゲームを中心とするのはライフダイナミックス系のセミナーであるが、この点については講義型であるest系も単に一方的に教えられるという形ではないことで共通している。メッセージ自体はそう奇抜なものでもなく、トレーナー自身、この中で自分が伝えることはどこかで聞いたようなことかもしれないと最初に述べることもある。その分セミナーを作るのは受講生自身であることが伝えられる。

 このメッセージがいかに伝えられていくかは次節および第3章で述べることとする。
2006年05月24日(水) 16時10分10秒

序章 前提と本稿の概要

テーマ:修論
序章 前提と本稿の概要

本当のジブンはどこにいるのか

 「あなたらしいスタイルで。」「個性を大切に。」「新しい自分に出会える。」「ありのままのあなたを見せてください。」

 ファッション誌やダイエット、英会話のみならず、最近では学生の就職活動でもこの「自分探し」は一般的になった。「個性」と呼ばれる何かが重視されることについての「共同体の崩壊により自らのアイデンティティ求めて自分探しを行わざるを得なくかった」などという若干悲観的(あるいは同情的)な分析とはうらはらに、相変わらず、それは基本的には肯定的に受け入れられている。他者と差異化しようとあくせくし、自分のシルエットを掴もうと、獲得しようと必死になる様を、「個性を強いられている」と説明することはできるだろう。だがそれが難儀であるのは、必死になる本人たちも、その価値に同意し、肯定的に価値付け続けているという点である。「支配からの解放」として「個性」があるならば、「個性」など幻想だとそれを捨て去り支配に服そう、ということにはなかなかならない。たとえば「あなた方の個性を大切にしたい」という組織を、成員がそれ自体を悪として責める姿は想像し難い。あるとすれば、本当に個性を大切にしているのかであり、個性を大切にする「やり方」に対するものだろう。そうして、「支配」に服することまで、自律性の土台の上で語られるのである。

 本稿が対象とする自己啓発セミナーは、そういった「本当のジブン」をめぐって、「個性」と「支配」が入り交じった典型的なものであると言えるだろう。


本稿における自己啓発セミナーの範囲

 自己啓発セミナーと今呼ばれているものが日本に出現してからはや30年近くが経とうとしている。だが、自己啓発セミナーを厳密に定義した論者はおらず、そう呼ばれるものの一般的な形式を説明するに留まっている。極単純にいうと、エンカウンター・グループ、交流分析、グループ・ダイナミクスなどを利用したアメリカ生まれのビジネスである。だがこれは定義ではない。上記のような技術を利用したもの全てが自己啓発セミナーであるとはいえないのだ。その目的である「自己変容」や個々人の成長を目指すセミナーを自己啓発セミナーとするとしたところで、とりこぼすセミナーもあれば、自己啓発セミナーとは言い難いものも含まれてしまう。

 だがその国際的な拡大や、最盛期には150~200とも言われた圧倒的な運営会社数にもかかわらず、基本的な活動形態やそこで伝えられる考え方が共通しているとしばしば指摘される[芳賀 2004:38]。これは、「自己啓発セミナー」の卒業生が同様のセミナー会社を立ち上げるというケースが非常に多かったことによるだろう。日本において「自己啓発セミナー」と呼ばれていたもののプログラム内容は、「ライフダイナミックス」のプログラムが多大な影響を与えている。小久保[2003b:9]は、「端的に自己啓発セミナーを特徴づけているものは、その『プログラム』なのである」とし、それも「ライフダイナミックスのようなライフスプリング系列の『プログラム』」だと言う。

 したがって、本稿においても自己啓発セミナーを不可分に定義することは避け、基本的にはARCインターナショナル社の主宰する「ライフダイナミックス」のプログラムを持つものを想定して論を進めていく。もちろん、先行研究の全てがライフダイナミックスのものというわけではない。だがその業界における影響力の大きさから、ライフダイナミックスを考察の一部に含まない自己啓発セミナー研究は、少なくとも日本の論者によるものにはほとんど見られない。よって、各論者がどういったプログラムやシステムを指して自己啓発セミナー現象を分析しているかということには細心の注意を払った上で、セミナー会社が共通に持つルールやプログラム、それによって作り上げられる「場」や受講者の感情表出、また特にその認識に注目し論じることとする。

自己啓発セミナー受講経験

 筆者は2005年、本稿執筆を目的として都内の自己啓発セミナー会社の基礎コースを受講した。上記の「ライフダイナミックス」のトレーナーが独立して設立した自己啓発セミナー会社であり、匿名性の保ち方や名称等細かい違いは見られるものの、プログラムはライフダイナミックスのものとほぼ重なるものであった。自己啓発セミナーはほとんどが紹介者を通じて受講するものであり、同社については潜入調査を避けるために紹介者を通じた受講しか認められていなかった。受講を問い合わせた際の担当社員の申し出により、前もって面会し、社員に紹介者を引き受けていただくこととなった。執筆に関しては、社名等が推測できる内容とならないことを約束した上で面会時に許可を得た。あくまでも1人の受講者として参加し、したがって受講料も正規の料金を支払った。

 他の受講者に対して受講目的を明かすことは、確認したところ任意であるとのことだったため、セミナー受講の妨げにならないよう最大限の注意を払った上で、明らかにしていった。予想に反し、自己啓発セミナーを研究対象としており、そのために受講したという告白は他の受講生にはすんなりと受け入れられ、感心されたと言っても過言ではない。受講終了時には、「参考になったか」、「書けそうか」と気を遣われたほどである。それは島薗[1996]が研究者として年数を経るごとに参与観察が困難になると言うように、研究目的といってもあくまでも「学生」として認識されたことによるのかもしれない。いずれにせよ、筆者のセミナー体験は、筆者が研究目的であったことによって極端に歪められたとは言えない。

 受講後に再度、筆者の紹介を引き受けた社員に執筆の範囲について確認したところ、「感じた通りに書いて良い」との許可をいただくことができた。したがって本稿は、社名はふせることとするが、体験に基づき、かつあくまでも1人の受講生によるものであることを十分に考慮した上で執筆していくこととする。

自己啓発セミナー研究とその本稿における位置付け

 本稿において自己啓発セミナーに関する先行研究は、「参考文献」であると同時に「研究対象」である。というのも、自己啓発セミナー研究は、多くがセミナー参加の上で書かれており、もちろん客観的と言い得る分析もあれば、(程度こそあれ)研究者自身のセミナーでの経験が滲み出ている記述も少なくないからである。研究者が研究対象に含まれるというテーマは、社会科学全般、特に参与観察には常に付きまとう問題である。自己啓発セミナー研究は、中でもそれが強い「感動」経験を伴うため、自己啓発セミナー史の記述ならばまだしも、セミナー空間の記述となると研究者本人のセミナー観が読み取れるものが多くなる。したがって本論文ではそれらの認識を排除することはせず、研究者それぞれにとっての自己啓発セミナーがいかに語られているか、研究対象としていかに語られてきたかを筆者自身の経験も踏まえて考察し、最終的にはその研究の今後の可能性を示すこととする。本稿のタイトルが「自己啓発セミナーの・・・・・語られかた」であるのもそのことからである。
以下、自己啓発セミナーに関する主要な著作と論文を挙げておく。


 1988 井上芳保『現代におけるルサンチマン処理産業の社会的機能──iBDセミナーとモラロジーにみるオルタナティブの行方』
 1990 二澤雅喜『人格改造!』
    国民生活センター「急増する“精神修養講座”──不透明な内容・勧誘の背景、情報も不足」
 1991 井上芳保『苦悩する自己啓発セミナーの研究──解放のイメージを求めて』
    二澤雅喜・島田裕巳『洗脳体験』(※1991年出版『人格改造!』に島田裕巳氏の解説が加えられたもの)
    柿田睦夫・藤田文『霊・超能力と自己啓発──手さぐりする青年たち』(※『赤旗』1990年12月からの30回の連載を単行本化したもの)
 1992 弓山達也「自己啓発セミナーとマスコミ報道」
    石川准「ヒーリングを買う──心理的幸福術+α」(『アイデンティティ・ゲーム』)
 1993 久保博司『人は変われる──内側から見た自己開発セミナー』
    毎日新聞宗教取材班『世紀末の神サマ──ルポ・若者と宗教』
    福本博文『心をあやつる男たち』
 1994 芳賀学・弓山達也『祈る ふれあう 感じる──自分探しのオデッセー』
 1995 芳賀学“Self-Development Seminars in Japan”
 1996 島薗進「自己変容体験とその参与観察──セミナーの倫理と愛」(『精神世界のゆくえ』)
    大沼孝次 『マインド・コントロールと闘う方法──自己啓発セミナー、カルトな宗教、悪徳商法から身を守る』
 1997 小池靖 「商品としての自己啓発セミナー」
    塩谷智美『マインド・レイプ──自己啓発セミナーの危険な素顔ドキュメント』
    斎藤貴男『カルト資本主義』
 1998 奥村隆「非難の語彙、あるいは市民社会の境界」(『他者といる技法──コミュニケーションの社会学』)
    樫村愛子「自己啓発セミナーの困難──『自己による自己の支配』が生み出す自己の解体」(※2003年『「心理学化する社会」の臨床社会学』に収録)
    樫村愛子「自己啓発セミナーの危険性」(『ラカン派社会学入門』)
    小池靖「パスト・プレズント・アンド・フューチャー──ニューエイジ研究の歴史と展望」
    小池靖「ポジティブ・シンキングからニューエイジまで──ネットワーク・ダイレクトセリングと自己啓発セミナーの宗教社会学」
    津村俊充「自己啓発セミナーとマインド・コントロール──Tグループを用いた人間関係トレーニングと似ても非なるもの」
    二澤雅喜・島田裕巳 『洗脳体験〈増補版〉』(※1991年出版『洗脳体験』に加筆されたもの)
    芳賀学「親密さと自由の共存──自己啓発セミナーのコミュニケーション特性」
 1999 柿田睦夫『自己啓発セミナー──「こころの商品化」の最前線』
 2000 井上芳保「消費社会の神話としてのカウンセリング」
 2001 福本博文『ワンダーゾーン』
 2003 井上芳保「『心のケア』の幻想と現実をめぐって——『再魔術化』の時代に耐える社会臨床のために」
    小池靖「自己啓発セミナーとその周辺~マルチ商法、精神世界、セラピー文化」
    小久保温「自己啓発セミナーの歴史」「自己啓発セミナーのプログラム」「自己啓発セミナー問題概論」
    吉田敦則 「当惑と秩序──自己啓発セミナーにおける当惑の回避過程について」
 2004 小池靖「精神世界におけるカルト化—ライフスペースを事例に」
    芳賀学「匿名的で、かつ『親密』なかかわり」


本稿の構成

 本稿は、自己啓発セミナーがいかに語られているかを、特に「集団」をめぐって論じていく。

 第1章「自己啓発セミナーとは何か」では日本における自己啓発セミナーを、系譜、プログラム内容、雑誌メディアにおける報道の傾向などを通じておおざっぱに掴んでいくこととする。

 第2章「スピリチュアリティ研究における自己啓発セミナー」では、自己啓発セミナーを宗教現象と結び付けた考察、特に観察者による類型化の中で自己啓発セミナーを論じたものを検討する。まず第1節においては、その準備として、自己啓発セミナーという言葉が日常言語としての「宗教」に結び付けられるとき、それが何を表すのかについて考察した。第2節で取り上げるのは、観察者視点に立った分析である。スピリチュアリティ研究が多大な影響を受けたニューエイジから概観し、それらの現象での「内なる神」の強調や、組織嫌いなどをキーワードとし、自己啓発セミナーにそれらの諸要素が含まれるかを見る。第3節では、自己啓発セミナーの受講生同士の関係性に着目した1・5次関係という概念について検討を加える。第2節および第3節で取り上げる自己啓発セミナーをめぐる議論は、いずれも「類型」が先行される傾向のあると考えられるものであり、受講生に着目している1・5次関係にすら、そのあり方を静的に捉えた傾向がある。自己啓発セミナー研究においてはその実践者たる受講生に寄り添った分析が不可欠であり、より動的に捉え直す必要があることをここで示すこととする。

 第3章「自己啓発セミナー空間における受講生の認識過程」は、そういった第2章とは対照的に、セミナー空間の諸要素との関連で、受講生がどう感じていくのかということを分析していった。特にここからは、筆者の経験を資料として全面的に出したものとなっている。その営業形態や、トレーナー、アシスタントなどが受講生の認識にいかにして影響を与えているかを論じる。第2節では、「一時性」が受講生の認識に与える影響を、特に「本当のジブン」の獲得といった文脈で検討していく。自己コントロールが高度化している時代で、いかなるものが「本当」と思われるか、どうすることがそれを獲得したという感覚になるのかについて、特に「コントロール」に注目し論じた。そして最後に、セミナー空間が一時的であるという表現が含む2つの意味、つまり「条件としての一時性」と「事実的集団としての一時性」を示し、それらは互いに影響し合いながらも分けて考えるべきものであることを示す。

 そして、第4章「集団認知とその継続可能性」では、前章までで出た諸要素をつなげていくこととする。第1節で「自己カテゴリゼーション」による集団がいかなるものかについて触れ、以下の考察はそれを元に論を進めていく。どういったレベルで受講生たちが集合的アイデンティティを持つのか、そしてそれが重要な空間となっていくのか。また、第2章で見た通り自律的でありたいと望む者たちが、集団の束縛感、トレーナーによる支配を一体どのように超えていっているのかを、「選択」というセミナーのレトリックを使って検討する。受講生の中では、それは都合よく、かつ非常に巧妙に認識されていっているのだ。そして最後に、自己啓発セミナーをめぐっては避けて通ることのできない「事実的集団としての一時性」を、集団性の見地から説明して終わることとする。

 全体を通じて、スピリチュアリティ研究が特に重視すべきである実践者のダイナミックな変化に沿って記述したつもりである。本稿がそれを感じさせるものとなっていることを願う。
2006年05月24日(水) 16時01分32秒

【目次】「自己啓発セミナーの語られかた──集団内の自律と他律をめぐって」

テーマ:修論
序章 前提と本稿の概要

第1章 自己啓発セミナーとは何か

 第1節 自己啓発セミナー概要
  (1)日本における自己啓発セミナーの系譜
  (2)受講生のタイプ
  (3)自己啓発セミナーのメッセージ

 第2節 主要なプログラム内容
  (1)コース概要
  (2)第1段階のプログラム──自己を知る
  (3)第2段階のプログラム──自己の殻を破る
  (4)第3段階のプログラム──他者の成長に貢献する

 第3節 自己啓発セミナーをめぐる雑誌メディア

 [資料]

第2章 スピリチュアリティ研究における自己啓発セミナー

 第1節 「自己啓発セミナーは宗教か」──空虚な箱としての「宗教」

 第2節 自己啓発セミナーの超越性と集団性をめぐって
  (1)新霊性運動と宗教組織
  (2)自己啓発セミナーは「新霊性運動」に含まれるか

 第3節 公共空間と親密な関係──1・5次関係

第3章 自己啓発セミナー空間における受講生の認識

 第1節 セミナー空間の諸要素

 第2節 「本当のジブン」の獲得
  (1)「その場限り」感と親密な関係
  (2)本当のジブンはどこにいるのか

 第3節 セミナー空間は一時的か──2つの「一時性」

第4章 集団認知とその継続可能性

 第1節 集団の存立条件とその効果

 第2節 自己啓発セミナーの集団性——「本当のジブン」の居場所
  (1)自己啓発セミナー集団の「境界線」
  (2)「本当のジブン」の居場所──非日常の標準化

 第3節 ツールとしての責任──コントロールしないことを選択する

 第4節 自己啓発セミナー集団継続の限界

終章 自己啓発セミナー研究の可能性

[文献]



2005年11月23日(水) 15時39分47秒

自己啓発セミナー的空間の特殊性──一時性・瞬発性

テーマ:修論
 自己啓発セミナーの特徴は、その盛り上がりが瞬発的かつ一時的・である/に支えられている・と同時に、その場が「本来の居場所」-ある程度の持続性を持つ場-として捉えられていくことである。本論文においては、前者のような側面を<カーニヴァル>[鈴木 2005]として捉えた上で、それが同時に後者のような側面を持ち得るメカニズムと条件を検討していくこととする。

1.自己啓発セミナーの軽やかさ~カーニヴァル性

 1980年代以降に登場してきた「予防としてのやさしさ」、つまりお互いに相手を傷つけないよう予防線を張るような関係が規範的となっている現代において[森 2000:101]、自己啓発セミナー空間は「非日常的」なものであると言える。
 奥村[1998:166-215]は、自己啓発セミナーにおいて見られる溢れる号泣・抱擁・秘密の告白・見つめ合いの非日常性こそが報道のセミナー批判の的になるものであると論じている。すなわち、上記の行為は、家族に代表されるような「私秘空間」でなされる行為であるはずなのだが、これが自己啓発セミナーという、短期間時間を共にするだけの見知らぬ他者同士が集う場でなされるという点があまりに非日常的であり、それが一般には受け入れられ難いのだというのである。同論文において興味深いのは、それらの行為が「見知らぬ他者」だからこそできるという側面を指摘している点である。家族や友人との関係は、「続けなければ」ならず、過去や未来から放たれて行為することはできない。だが、続けることを考えなくて済む「ただの他者」とのその空間には、現在しかなく、だからこそできる行為なのだと言うのである 。通常であれば「私秘空間」には入り込まない「見知らぬ他者」(他のセミナー参加者)だからこそ、「親密な他者」(家族・友人)よりも純粋に、自分の内面に存在する「コントロール不可能なもの」を他者に向かって投げ出し、また受け止めてもらえる可能性を開くことができるとするのである。
 また、芳賀[1998:146, Haga 1995]は、自己啓発セミナーというコミュニケーション空間においては、「ゲマインシャフト的な人間関係で得られる親密さ(癒し)とゲゼルシャフト的な人間関係にある自由」が共存していると主張している。セミナー中のエクササイズは、「秘密を明かすとか、相手にストレートな評価を下すとか、どれもプライドやプライバシーに関わる、非常に刺激的で心理的インパクトの強いものばかり」[同:145]であり、親しい間柄であってもそう頻繁には行われないほどに「親密な」内容である。一方で、知り合い同士で参加の場合は可能な限り引き離すなどの配慮で匿名性は維持され、「その場限り」が作りだされると言う。
 奥村と芳賀ではセミナーの効果についての論じ方が全く違うにもかかわらず、自己啓発セミナーにおける関係が、「その場限り」である側面を強調している点で共通している。「予防としてのやさしさ」が規範的である中、他者に入り込み、責めるといった反-規範的な行為を支えているのがこの「その場限り」感であると言うことができる。
 これを考察するのに示唆的であるのが、<カーニヴァル>という概念である。『カーニヴァル化する社会』[鈴木 2005]で「瞬発的な盛り上がり」を表すこの概念の最も顕著な例として挙げられたのは、サッカー・ワールドカップの若者の度を越した狂乱騒ぎである。自己啓発セミナーは、一時的かつ瞬発的に爆発的な盛り上がりの中で自己を解放していくという側面において、鈴木の使う意味におけるカーニヴァルの一種であると取ることができる。これらのカーニヴァルにおいて反規範的ともとれる行為が行われるのは、「狂乱騒ぎをすることが許されている/そうすべきだ」という条件に支えられており、カーニヴァルの参加者たちは、そういった意味で非常に受動的にその場を消費していく。


2.自己啓発セミナーの重々しさ~「本当のジブン」の居場所

 しかしながら、自己啓発セミナーは通常のカーニヴァルとは異なる面を持つ。それはまさしく、受講者ののシリアシティである。主催者側は「今ここ」で生きることこそ本来の生き方であることを強調し、受講者が感得するのもまさにその「今ここ」でありながら(既に述べた通り、それこそが感動を支える1つの要因となる)、彼らにとっての自己啓発セミナーという場の意味合いは、「軽やかさ」とは対極の、アイデンティティの支えとしての「重々しさ」を持つものとなっていくのである。受講生は、セミナーという場を「その場限り」として通過していくわけではない。セミナーは、「本当の自分」の原点となっていくのである。
 こういったパラドックスとも言える現象を考察するのにキーとなるのが、【責任】という言葉である。従来の自己啓発セミナー研究でも注目されてきた通り、「人生は自らの選択である」といった種の「自己責任」こそが、自己啓発セミナーで最も強調されるメッセージのうちの1つである。これが、セミナーの軽やかさ故に得られたはずの受講者たちの感動を、最終的に重々しい「本当のジブン」につなげる重要なキーとなっていくのである。
 「自分の人生は自分に責任がある。ゆえに人生はすべて選択である」というセミナーのメッセージ[小池 1997:140-143]は、セミナー参加の条件となる初日のグランドルールの説明から最終日まで、一貫して伝えられていく。どういう経緯で参加したにしろその場にいるのは自分の選択であり、グランドルールへの同意も自分の意志であるし、遅刻も、そして急病すら自分の選択ということだ。セミナーにおいてのみではなく、人生において出会ってきたさまざまな障害も選択であるし、日常的な苛つき、絶望、怒り、屈辱すら、それぞれが、何らかの代償を得るために選択しているのだと繰り返し説かれることとなる。全ての責任を負うことは一見して非常に息苦しいものに思えるが、まさにそれに同意することによって、最終的に「本当のジブン」を我がものとするのである。
 「騒ぐべきである」「笑うべきである」「泣くべきである」に身を任せる様子に見られる通り、<カーニヴァル>における受動性は否定することは困難である。トレーナーやアシスタントの指示に忠実に従っていく様子も、まさに受動的である。それにもかかわらず、その場に自己を投入することを【選択】したのだというただ一点において【責任】が取られることによって、それら【無責任】な行為は“最終的に”彼ら本人のものになっていくのである。つまり、それらの行為は「入口」と「出口」において【責任】下にあり(入口:その行為をすべきであることに同意する=選択する/出口:その行為によって得られた結果・成果を自分のものにする)、他方、その間にはさまれた「身体」は【無責任】状態あるということになる。これを自己啓発セミナー空間に当てはめてみるならば、以下のようになる。すなわち、トレーナー以下セミナーにコントロールされた状況を受動的に消費しながら(身体的無責任)、その状況を「選択した」と認識するという一点をもって、セミナーによって得られた成果、すなわち「本当のジブン」を最終的に所有することを許されるのである。


 以上のような、過剰に【責任】を取ろうとすればするほどに、身体が【無責任】になっていくという現象は、自己啓発セミナーに限ったものではない。だがそれは、<カーニヴァル>という言葉で語られてきた、いわゆるワールドカップにおける若者の狂乱騒ぎや、コンパなどといったものではなく、むしろ労働の場において見られるものだといえる。公務員としてすべきこと、教師としてすべきこと、店員としてすべきことに「責任を持つ」ということは、それらを自分の職業として「選択」する/し続けることであると言えるだろう。それはこれまで社会学で言われてきたような「役割を演じる」という水準を大きく越えていると言えるだろう。なすべきことを「役割」に依存して思考しながら、責任というただ一点によって、その成果を自らのアイデンティティの一部としていくことができるのである。
 労働における【責任】にも似た重々しさにもかかわらず、相変わらず自己啓発セミナー空間は軽やかなカーニヴァルであり続けている。またカーニヴァルであるからこそ、それは個々にとって意味を持つものとなっていく。
 自己啓発セミナー研究はそのブームが過ぎ去ったとともに、下火になったと言える。だが、自己啓発セミナー空間は、他では見られない特異でかつ現代的な空間であり、セミナー研究はさらなる進展を期待することができるであろう。


【引用文献】
Bauman, Zygmunt, 2000, Liquid Modernity, Polity Press Ltd.(森田典正訳,2001『リキッド・モダニティ──液状化する社会』大月書店)
Haga Manabu, 1995, "Self-Development Seminars in Japan", Japanese Journal of Religious Studies, vol.22, No.3-4
芳賀学,1998,「親密さと自由の共存──自己啓発セミナーのコミュニケーション特性」島薗進・越智貢『情報社会の文化4──心情の変容』東京大学出版会
森真一,2000,『自己コントロールの檻』講談社
奥村隆,1998,『他者といる技法──コミュニケーションの社会学』日本評論社
鈴木謙介,2005,『カーニヴァル化する社会』講談社
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