観察
この表現もあまり好きではないけれど、自分が心の奥で大事にしてきたものを
他人が知ってか知らずか、踏みつけられる位置にあるので、
意図的であれ無意識であれ、踏んだ事で他人が酷く傷付く状態を踏みにじると言うのだと思う。
逆にいえば、踏みつけてしまう事が有るほど近い距離とも言い換えられると思う。
他人が他人でなくなって行く時には良く起きる事の様な気もします。
考察
誰の前にでも、心の大切な物を無防備に晒しておく人は、
他人に「踏みにじられた」と言う前に、ちゃんと管理しておかなかった不備を考える事も大切だと思う。
他人が間違って踏んでしまった瞬間に、「傷付いた」とか自分で簡単に言ってしまう人間も居るけれど、
それを言われた人の方が傷つく事の方が多いのではないだろうか?
腫れものに触ると言う表現も逆にいえばあるけれど、ここまで極端では無くても、
その第一歩に成りかねないとも思う。
やはり心の奥にあるものは人を選び、たまに見せる位が丁度良いと思う。
また見せる事を選ばれた人間の前では、見せた瞬間に受け入れられなかった場合、
直後に受け入れられなかった事を踏みにじられたと言う人もいるけれど、
また見せる事を選ばれた人間の前では、
何時でも本気と本気で関係して居る事も多いので、
直ぐに口喧嘩とかにもなるけれど、
踏みにじりを遣られたとか思わない。
推察
多分、「絆」は、
そう言う傷付きを傷付きと
思わなくなって行く過程の
一つなのかもしれない。
簡単にいえば、他人が他人では無くなる過程
踏みにじりフレーズが出ている、または出るかもしれないと言う関係に、
「絆」と言う物は試され続けるのかもしれない。
洞察
或る意味禁句に使いフレーズではあるけれど、
心の距離が近い人間に対して、または近づいて来ている人間に対して、
不用意に踏みにじられたとか、気づ付いたという言葉を自分から発する事は、
極力避けたい行動ではあるけれど、
自己防衛と言うのか、急に距離が縮まってきてしまう事の恐れから、
つい言ってしまったりもするフレーズなので、
それを分かっていて自分でコントロールするすべを持つ事が出来たならば、
いわゆるトラウマと言うものから解放される部分も有る様な気もする。
近い距離の人間と言う物は、
親兄弟もそうだけれども、会社の同僚や友達、
濃い関係薄い関係色々な関係が有るけれど、
より濃い関係ほどこのフレーズは出易いものだ。
簡単には踏み躙られた等というまい。
その積み重ねもまた絆(いい事ばかりではない)
と言うものの一部なのだから。