私は先日のブログで全日本マーチングコンテストの過去の全成績を高校別にまとめた(こちら)。そのデータから関西代表高校の成績のみを抽出したのが上表である。表の見方については先日のブログを参照していただきたい。これをもとにしてKTは全日本マーチングコンテストをどう戦ってきたかを私なりに分析する。この大会は競争なので他校がどういうふうに戦ってきたかを見ないとよくわからない。とくに,上表のように,どういう高校がどのような時系列で戦いに加わってきたのかがわかるように並べられていないと俯瞰は難しい。大事なことを言い忘れそうになったが,KTのマーチングコンテストで一番大事なことは関西大会突破である。全国で金賞をとるよりも関西予選を勝ち上がる方が何倍も困難である。そういうこで,KTのマーチングコンテストの歴史は関西大会をみるだけで十分である(全国に行けなかった時期も長いので,当然のことでもある)。

 

 結論から言うと,KTは5つの期間に分けられる(上表にその時代区分を示した)。この期間ごとに考察していく。

 

(1)第一次黄金期(1988-2000)

 マーチングが今に比べて普及していなかった。老舗中の老舗が阪急商業(阪急少年音楽隊)である。阪急がステージマーチングショーという独自の文化を生み出した。阪急から派遣された宮一弘コーチがKTでも指導していた。阪急とKTがマーチング界をリードしていたと思われる。この両校と淀川工科と明浄学院を合わせて4強を形成していたのがこの時期である。4校とも全国では最高の賞(金賞もしくはGood Sound賞)を採る実力であった。まだ,全国レヴェルが高くなかったことも関係している。

 KTの第一次黄金期の最終年(2000年)において,Good Sound賞が採れていない。その後の第一次氷河期を予見しているかのようである。第一次黄金期の終焉は宮一弘氏の急逝で突然現れたかのように見られているかもしれない。つまり,思うような練習ができなくて全国大会に進めなくなったのではと思われても仕方ないことだろう。

 第一次黄金期の完成形のマーチングを映像で捉えたそのものズバリはないが,1999年の三出休み関連で特別演奏を行っている。ステージマーチングショーとも言えるものであるが当時の記録として貴重だと思う。(「闘牛士のマンボ」はT先生が宮コーチにお願いして入れてもらったらしい。そのことがT先生にはことさらに嬉しいのだ(こちら)。そういう間柄だったんだ。そして,場所は上野の東京文化会館というだけでT先生は舞い上がってしまったのである。バースタインがニューヨークフィルと共にやってきてショスタコービッチを演奏した同じステージ立てたと興奮した。いずれにしろこの動画がどういうものかわからないが世間に出回ったことは大きい。)

 

 

(2)第一次氷河期(2001−2006)

 第一次氷河期は武庫川女子大付属高校が突如登場して始まり,2007年の大会側の大改革により武庫女らがAJBAから退去した事により終わる。

 先に言っておくが,この時期の2001年を限りにして阪急が大会から消えた。経営側の阪急が撤退したからである。阪急時代は西宮球場に本拠を置いていたので兵庫県から出場していた。その後,そのバンドは吹奏楽部として茨木市の向陽台高校に,さらには早稲田摂陵高校として受け継がれていく。茨木市は大阪府であるので,大阪府代表として出場している。阪急時代は無敵であったが,それを受け継いだ高校は全国大会の常連ではなくなっている。長い年月のスパンで見ると,実に面白く阪急にとって代わる高校が間髪を容れずに現れた。それが滝川第二高校である。第1回から第36回まで,阪急-滝川第二で一つの枠が「指定席」として固定されていることになる。

 本論に戻るが,武庫川女子台付属のマーチングバンドを立ち上げた久家亮市先生は長らく神戸市立の中学校を指導して全国大会で名を馳せていた。その先生が武庫女に引き抜かれて,たちまち武庫女を全国レヴェルにした(こちら)。彼のいた神戸市立玉津中学校は,西区にあり滝川第二とは至近距離である。当時はマーチングのレヴェルは中学校と高校でそれほど大きな差はなかったと推測する。滝川第二の西谷尚生先生(たぶんMasao Nishitaniとお読みすると思う)らがマーチングを始める時,神戸市立玉津中学校等に教えを請うていた可能性は極めて高い(こちら)。興味深いのは,上表の2000年ごろを見れば,兵庫県から明石北,武庫女,滝川第二が急に出現してくるのである。武庫女は西宮市であるが,指導者はもともとは神戸市西区の人とすると,神戸の西部から明石市にかけての狭い地域ではあるが独自のマーチング文化が盛んであったと想像される。

 当時のマーチングコンテストはパレードコンテストの部とフェスティバルの部に分かれていた。どのように関西代表が選ばれていたか知らないが,この時期はパレードコンテストへの部には淀川工科と滝川第二の2校が,フェスティバルの部には明浄学院と武庫女の2校が選ばれることが多く,これらが4強である。消えた理由は異なるが阪急とKTがほぼ同時にいなくなっている。本格的なマーチングを取り入れる高校が実力を発揮し,古い体質のKTは弾き出されたのかも知らない。

 全国への出場回数は少ないが京都府立洛西(らくさい)高校もフェスティバルの部で3回全国に出場している。特筆すべきは2005年の戦いである。KTを打ち破っての全国出場である。明浄,武庫女,洛西がKTの前に立ちはだかっていたのである。

 第一次氷河期と言っても全日本マーチングコンテストという大会という観点からの括りであって,この時代KTのマーチングに人気がなかったわけではないと思う。そういうなか,KTは全国大会に出るためにもがきにもがいていたと想像する。氷河期に入った年2001年に宮一弘コーチに代わって横山弘文コーチが就任する。横山コーチは宮コーチの信頼の熱かった人と言われているが,彼の経歴はよく知られていない。その当時は若く経験も浅く,いきなりのKTの指導には苦労されたことであろう。まだ彼自身のやり方が固まっていない時期に前任者を継がれたので,前任者のやり方を尊重されたのであろうと想像する。前任者というか,前任者から教育を受けた生徒にも一目置かれていたのではないだろうか。そういうことで,マーチングの構成なども生徒のアイデアを尊重する姿勢が在任中貫かれたと想像する。そういう姿勢ではあるが,要所要所では彼の指導がなされたのであろう。その極め付けは「ダンシング Singx3」の発明をもたらす,彼の生徒へのアドバイスである。2005年こととされている。2003年に完全に学校が共学化され,吹奏楽部男子1期生が入ってきた。芝公平君もそのひとりで,2005年当時最上級生であった。その彼を中心となって,踊るマーチングが編み出された。当時アメリカでバーンザフロアというダンシングチームがsingx3に併せて激しいダンスを表現し始めた。それがおさめられたDVDを横山コーチが生徒たちに渡して,これを参考にしたらと提案したのだろう。

 KTはすでにそれ以前からマーチングコンテストでSingx3を使っていたのでそのDVDに飛びついたのであろう(たとえば,2003年(平成15年)の第16回京都府マーチングコンテストでは全体テーマ「Swing! Swing! Swing!」とし,Sing ×3を演奏している(こちら)。下地はできていたのである。そのダンシングSing × 3の初演を撮ったビデオなど出回ってはいない。下手したら学校にも記録はないかもしれない。動画を発信するということに関して極めて無頓着である。現在に至ってもオンライン上でアーカイブを充実させようなどという動きは全く感じられない。学校の広告塔としてこれ以上のものはない。日本の宝,いや,世界の宝を公開しようとはしない。不思議な学校だ。

 どういう経緯から知らないが,京都市出身の熊谷譲というひとかが,KTに注目していたようだ。めざとい人で,アメリカのRose ParadeにKTを送り込んでやろうとしていた。彼は見せかけの団体を作るのが好きみたいで,日米グリーンバンドとかいう団体を2000年代初頭につくった。環境保護活動と銘打って日本の吹奏楽バンドをアメリカに連れて行ってチャリティー演奏会をやらせる活動を開始した(いまではもっぱらローズパレード専門である)。その彼が,2006年のローズパレードに精華女子高校が出場するという機会を見逃さなかった。同一時期にKTをカリフォルニアに連れて行って精華女子を見学させたのである(?)。ただの見学でなく,KTにはディズニーランドでのパレードをさせ,地元の大学でチャリティー演奏会を催しそれにも参加させている。偶然であろうが,そのアメリカ遠征時にはダンシング Sing × 3 が一応形作られていた。それを携えての演奏会であった。また熊谷氏は得意の8mmカメラでその一部始終をビデオに撮っている。KTサイドはたぶん写真くらいしか残していないと思う。そのビデオは次のものである。

 まず2012年,2013年は新興勢力の箕面自由学園の台頭により全国進出を阻まれている。箕面自由の一人のマーチング指導者は阪急出身の秦和夫氏であったが,なぜか正統派のマーチングがいきなり植え付けられていた。それが証拠に,

 

 

 参考のために同時期,カリフォルニアにいて素晴らしい演奏を残したのが上記の精華女子である。そのビデオを載せておく。

 

 

 

 この二つの演奏を比べると,当時両校が目指していたものは全く違うということがよくわかる。どちらもマーチングコンテスト仕様ではないが,なぜか違いが理解できてしまう。精華女子は世界レヴェルに達している正統派のマーチングでマーチングコンテストでも既に不動の地位を築いていたことがよくわかる。方やKTははちゃめちゃである。もう精華女子レヴェルには追いつけないと観念し,どこもやっていないことをやってやるぞという意気込みしか感じられない。

 その当時の武庫女を見てみよう。

 

 

武庫女にしても精華女子にしてもやはり,KTの演奏よりは洗練されていてうまいなと思う。マーチングコンテストで勝てなかったことがわかってしまう。同じ土俵の演技(マーチングコンテスト仕様)を見比べてみたかった。武庫女の演技をみていると。カラーガードのダンスが目立つ。こういうのを見せつけられると,うちもダンスに力を入れようと思うじゃないのかな。まさにYコーチはそういう心境じゃなかったのだろうか。特に,Yコーチは報徳学園高校出身である。同じ西宮市内の高校である武庫女に対抗意識を燃やさないわけないと思う。ひょっとしたら友人とかで知り合いとか武庫女にいた可能性だってある。KT側の指導部が武庫女のことをどう思っていたか一切記録はないと思う。

 もう一つのライバル高校は明浄学院である。こちらは大阪府の学校である。外部の人間にもわかるようなKTとの関係はないと思っていた。ところが,明浄学院とKTに大いなる接点が最近わかった。明浄学院の顧問の小野川昭博氏はKTの前顧問のT先生の3年後輩である。高校と大学のである。この高校は当時,東豊中高校と呼ばれていたが今は統合されて千里青雲高校という洒落た名前の高校になっている(Wikipediaはこちら)。ただの同窓生ではない,高校時代,音楽の基礎を培ったリコーダ部の先輩後輩である。第一次氷河期においてはKTはマーチングコンテストだけでなく,吹奏楽コンクールでも明浄学院に負けていた。先輩としては悔しくなかったのであろうか?悔しさよりはあの後輩ようやるなといった誇らしい気持ちの方が優っていたように想像する。

 

(3)不思議な時代(2007-2015)

 全日本吹奏楽連盟の第11代理事長を務めたのがKTの平松久司氏である。期間は2006年(平成18年)〜2013年(平成25年)であった。ほぼこの「不思議な時代」に被っている。平松久司氏が理事長の時に決まったのか,そのちょっと前なのかは知らないが,全日本マーチングコンテストは2007年の大会以降大きく変わった。私の理解では,これにより日本マーチングバンド協会(JMBA or M-kyo)主催のマーチングバンド全国大会との差別化が図られた。吹奏楽に軸足を置き,吹奏楽コンクールとの親和性が重視されたと思う。コンサートバンドがそのまま体育館のフロアを行進するという謳い文句である。派手な出し物は排除され,地味な行進を主体とするものとなり,かつてのフェスティバルの部が無くなった。これを各校はどう捉えたか詳しくは知らないが,関西では明浄学院,武庫女,京都府立洛西がAJBAからJMBA専門に鞍替えした。このような傾向は関西ではっきりした形で表れているが,他支部では私が見る限りではさほど生じなかったと思われる。まるで,KTの前に立ち塞がっていた高校を追い出すために行われた改革のように見えるし,そう説明する人もいる。私は,もしその理由が実際の理由であったならば賛成はできない。なんで,そんな芸術性に富む集団を追い出す必要があるのかと疑問に感じる。

 いずれにしろ,これにより,関西から全国への関門はユルユルになった。KTは復活したのである。明浄,武庫女の2枠が空いたことにより, KTだけでなく,新興勢力でありながらすぐに強豪となり得た大阪桐蔭も入ってきた。大阪桐蔭の存在が邪魔にはならなかった。KTは2005年に発明済みのダンシング Sing×3を全国に浸透させた。そのため,特に今となっては,KTの大復活はこの

ダンシング Sing×3によるものであると信じられている。ど素人の私がみるかぎり,KTのマーチングは異端であり続けたし,決して正統派のマーチングとしての実力が増したとは思えなかった。それが証拠に,この不思議な時代には他勢力の煽りを受けまくるのである。

 まず,2012, 2013年に全国に出られなくなった原因は箕面自由学園の台頭である。箕面を指導したのは阪急出身の秦和夫氏であったが,私の見る限り正統派のマーチングであった。そこで植え付けられたマーチングは本物で現在に至るまで実力を安定的に保持している。2014, 2015にKTが全国に復活できたのは大阪桐蔭がマーチングの大会への参加をやめてしまったからである。2016年以降再び出られなくなるのは関西からの代表数が3に固定されてしまったからである。要するに,この時代は成績が不安定であった。実力的にボーダーライン付近にいるため,他校の動向で出たり入ったりの時期であった。全国出場は他力本願であった。根本的な理由は,正統派のマーチングに変えようとしなかったからである。生徒の自主性が2001年以降ずっと守られていたと思う。生徒の作ったものを大きくはいじられなかったのかもしれない。そして,ダンシングメインでいくという方針が守られ続けられたからであると思う(確信的に言っているわけではない)。この考えは2020年ごろまで変わらなかったと思う。

 後で気づいたが,株式会社パルスからKTのDVDが発売されているが,タイトルは「KT吹奏楽部 SING! SING! SING! 2007-2015」である。もちろん偶然であるが,この「不思議な時代」とぴったり合致している。

 

(4)第二次氷河期(2016−2020)

 2020はコロナ元年で大会が中止になったこともあり便宜的にこの時代に組み入れた。(3)で述べたように,KTは異端のマーチングを変えることはなかった。代表枠の増枠もなかった。他勢力の力も変わらなかった。だから何も変わらなかった。大会だけ見ていると本当につまらない時期である。ただし,世の中にYouTube動画出回り始め,ちょうどうまいタイミングでKTのローズパレードの様子が流れた。そして一気に世界の橘へと上り詰めていくのである。大会の成績と彼らの人気は全く関係がなかったと言える。

 

 

 2018年度のKTの演奏はどういうものであったか見てみよう。

 

 

この頃から私はKTの動画を見るようになった。私には音楽の知識もないし,吹奏楽を見聞きする経験も皆無であった。ただ,ローズパレードの動画に触発されてファンになって行った。そういう経緯で全日本マーチングコンテストにたどり着いた。KTを贔屓目に見ていた。他の高校の演技を見ることも少なかった。私のようなにわかファンは,KTのマーチングコンテストの演技をみてこういうふうに思っていた。どうして全国に進めないの?審査がおかしいのでは?と,まあ関西はレベルが高い方なので仕方ない部分もあった。2020年を機にKTはガラッとスタイルを変更した。変更後のを見てからは,2018年の動画を振り返っても,当時とは違う感想を持つようになった。なんで,KTは頑なにスタイルを変えなかったのかと。安定的に全国で金賞を取り続ける学校はいくらでもある。彼らは普通の正統派のマーチングである。たとえば,王者である精華女子をみればわかる。

 

 

この動画を観ればいろいろな説明はいらないと思う。完璧である。KTはこういう模範演技を真似しようなどという気持ちは全くなかったと思われる。あくまでも,独自性を貫こうとしていた。しかし,そういう考えは規定のある大会には馴染まないのは言うまでもない。

 

(5)第二次黄金期(2021-)

 頑なに変えようとしなかった姿勢がガラっと変わったなと感じたのは2021年度の生徒,3年生が118期だったその時の生徒たちが大会に取り組む様子がテレビで放映されたのをみた時であった。なりふり構わず変えよう,変わりたいという意志を強く感じた。おりしも,コロナ禍でイヴェントが激減し自分達を見つめ直す時間が増えたことも影響しているかもしれない。また,指導体制がこの時期代わった。117期生以降の生徒はK顧問の指導しか知らないし,マーチングコーチも2020年ごろから現コーチに代わっている。指導内容が変わったことよりも,生徒たち自身が変わりたいと願ったことが一番大きかったと思う。指導者が代ろうとも変わらないのは生徒本位の運営だと思っている。

 いままでは,6分間の演技を構成するパーツとパーツの繋ぎ部分はいい加減であったが,それらのパーツ間の連続性が重視されるようになった。いわゆるフォーメーションチェンジができるようになった。このこと自体は,他の強豪校なら昔から心掛けてきていることで,何も目新しいことではない。しかし,そういうことがしろうとである生徒が始めるのは意外に難しいことであったのかもしれない(ど素人の考え)。なにはともあれ,それをやるようになってから成績が安定化しているようにみえる。

 毎度厳しいことを言うが,この変革で全国に復帰できたように見えるが(2021),実は,淀川工科が弱くなったこととと関連している。何十年と続いた淀川の指定席がひとつ空いたのである。これは,2007年の復帰とよく似ている。実力でもぎ取ったように見えるが,周りも変わっていたのである。

 2022年の台湾国慶節に招待されたが準備は2020年ごろから始まっていたと思う。一介の高校が他国の国家大イヴェントで演奏するのであるからそれなりのものを用意する必要があったと思う。しかし,それに全日本マーチングコンテストの演目をそのまま用いたのであった。2019年以前のKTのコンテスト演目であればあまりふさわしいものではなかったと思うが,台湾での演目,つまり「愛の讃歌」をメインにしたマーチングコンテストの演目は素晴らしいものであった。これだけで,KTが自ら大きく変化したと自負できる以前とは全く違うものであったからだと思う。とくに,選曲(編曲)を鈴木英史に全面的に依頼したことが大きかった。おそらく全日本マーチングコンテストと同じ内容の演技が国外で披露されたのは史上初めてであったかもしれない。それがそのままで芸術的作品としての価値が高いことが認められたと思う。直前にKTが大きく変化できたのは台湾遠征も大きな要因であったかもしれない。

 

 

 台湾遠征で膨大な量の動画が世の中に流れた。私が特に注目したのは,ビデオの1シーンである(ビデオはこちら)。新幹線で台湾国内を移動中,生徒たちは図面を広げて演技を確認していた。コンテらしきものが描かれていた。他校のマーチング取材番組で過去にほんのたまに見かけることはあった。こんなに露出が多いKTでも,コンテが映り出されたのは初めてのように思う。はっきり言いたい。KTのマーチング練習では周到に準備されたコンテが作られることはほとんどなかったのではないかと。だからフォーメーションチェンジが滑らかにできなかったのだと。そう言うふうに言われるようなレヴェルであったと思う,たとえ昔からコンテがあったとしても。

 2024年度の全日本マーチングコンテストは出場枠が広げられる。関西からは現行の4校から5校に増やされる。これで,KTにも余裕が生まれるだろう。しかし,伏兵が現れればどうなるかわからない。そんなに盤石ではない。ローズパレード2025の準備で時間が削がれる。マーチングコンテストの準備も怠りなくやっていただきたい。

 

●あとがき

 2018年ごろにKTのファンになって5年くらいがたった。でも全日本マーチングコンテストがわかり始めたのはこの1年である。理由は二つある。ひとつは,大会に弱かったKTが目の前で強くなっていく変化をみせてくれたこと。もう一つは客観的データブック「全日本吹奏楽連盟80年史」(2019発行)との出会いである。

 

photoncc

 2024年4月5日

 

●追記1(2024/04/07)

(6)失われた20年(2001-2020)

 第一次氷河期-不思議な時代-第二次氷河期,これらを併せて「失われた20年」と呼んでもいいのではないだろうか。KTレヴェルのマーチング有名校,例えば,精華女子,柏,習志野,淀川工科,...と枚挙にいとまがないが,KT以外は,今年もまた金賞かと言うふうに成績が安定している。意外な結果にとか,残念だったねと言うことがまずない。ファンを決して裏切らない。それに反して,どうしてKTには長い低迷期が存在するのだろうか?答えは簡単である。正統派のマーチングでないからである。ダンシングを取り入れたからと言う意味よりは,もっと簡単な答えだ。フォーメーションチェンジが下手なのである。正確に言えば普通のフォーメーションチェンジを取り入れようとしなかったのである。その姿勢はずーっと続いた。それが失われた20年である。ダンシングを取り入れて世間の人気を掴んでしまったことがこの不況期を長引かせてしまった。

 なぜ,KTだけがこうなったのか。その答えは阪急スタイルにあると思う。どこもまだあまりマーチングをやっていない時期からKTはマーチングを開始した。私は昔のことを知らない。調べようと思っても手に入る記録はほぼない。学校関係者(吹奏楽部卒業生を含む)できちんと文書に残してくれる人もいない。だから,想像した。交流を深めていた阪急少年音楽隊から指導を受けてマーチングを始めたのだと思う。公式にも1995年以降,顧問の交代に合わせて宮一弘氏が阪急からマーチングコーチとしてやってきたように受け取られることが広まっているが,それ以前から指導を受けていたと思う。女子校ということもあり,広いフロアでの演奏よりもステージマーチングショーのやり方を特に力を入れて叩き込まれたと想像する。ステージマーチングは阪急が世界に先駆けて始めたものとされている(詳しい説明はこちら)。マーチングコンテストでは阪急はパレードコンテストの部に出ていたのに対しKTはフェスティバルの部に出ていた。ひょっとしたら,阪急本家でよりもKTでステージドリル的な要素の継承を試みたのではないかとさえ思ってしまう。

 なぜステージタイプのマーチングがマーチングコンテストになじまないか。それは,マーチングコンテストが広いフロアで行われるものであるからだ。ステージでは観衆はの視線ベクトルは前方から向けられる。フロアでは斜め上からである。ステージでは大きな視野でのフォーメーションが見えない,見せる必要がない。フロアでは上空カメラで見るフォーメーションが重要となる。特殊なステージマーチングショーで成功を収めてしまったKTにはこれに対するこだわりが強かった。決して他校のようなマーチングを取り入れなかった。それで,この間も全国でたまに金賞が採れてしまっていた。不思議だ。

 KTに若干似ているのが阪急本家筋の早稲田摂陵である。ここもKT以上に全国への道は閉ざされてしまっている。あまり彼らの演奏を見る機会はないのでまだ十分な分析はできない。

 

(余談)先日の第60回定期演奏会ではOB/OGとの合同演奏があった。誰か一人でもいい,マイクを持ってもらって昔のエピソードでも語ってほしかった。言葉にすることは重要である。そういうことを聞き出すことができるプロのMCを雇ったほうがいいと思う。

 

●追記2(2024/04/08)

 T先生のYouTubeチャンネル(こちら)でマーチングに対する彼の基本姿勢が語られた。それにプラスして私の感想を述べる:

1. マーチングの公認指導員の資格制度(正式名調べず)が発足した時,その時点ですでに功績のあった先生方には無条件でその資格が与えられた。その恩恵(?)に浴した一人が平松先生であった。T先生はその資格をとっていない。KTに赴任したときすでに偉大すぎるマーチングコーチ宮一弘氏がいてマーチングのスタイルが出来上がっていた。出て行く必要がなかった。それで顧問たる彼は口出ししないという理由づけに至っている。宮先生がそのあとすぐに亡くなられるのであるが,マーチングを自ら学ぼうとしなかった。不思議だ現在のKTが広報という美味しいところをスポンサー企業に委託するのも同じように不思議だが,マーチングというワクワクする仕事にそばにいながら入っていかないというのは不思議でたまらない。

2. そういう状況であったからこそか,Yコーチがマーチングコーチに就任する(2001)。宮コーチは西宮市内の学校のマーチングも指導していた(上甲子園中学,報徳学園)。その報徳学園でたぶんDMをやっていたYは宮コーチの薫陶よろしく,一番弟子とでも目されていたのであろう。Yは大阪音大に進学している。宮氏の葬儀の折,T先生とYは一緒に取り仕切ったようだ。そういうきっかけも強く働いたのであろう,Y氏がKTのコーチに収まった。T先生にとってYは大学の後輩でもある。もうそれだけでうまくいったのであろう。

3. 宮氏は神戸のお寺の住職でマーチングを教えてたようである。出身大学は大谷大学である。どこで,マーチングを学んだのかT先生も詳しくは知らないようである(コメント欄での質問に対して,いつもその件については回答をはぐらかしている)。それにしても,お寺とマーチングか異色だな。でも,天理教でもマーチングが盛んだし。

4. 今の世界のKTを作ったのは,もちろん生徒たちであるが,1番の功績は宮コーチとYコーチである。しかし,一番,世間的に露出の多いT先生はほとんどその辺を詳しく語ることができないようである(知らない部分が多いのだろう)。また,マーチング曲の選曲ではT先生は自分がやったという気持ちが強いようである。それについても多くは語られないが,それがあるので,他コーチのことをあえて言わないのかもしれない。平松先生も書き残さなかった。卒業生も語らない。後世の歴史家は困ることだろう。

 

追記3(2024/04/15)

 今週の前顧問のYouTubeでも貴重な証言をもらえた(こちら)。宮コーチの作り出すKTのマーチングについて,外部からお褒めの言葉をいただくことが多かったらしい。ひとつの形から別の形に移る時,うまく崩して次へ移行しますねと。しかし,宮コーチはコンテなんかを使っていないと証言があった。「はい,2歩前へ前進とか現場で個別に指示を出していた」と。事前のストラクチャーは頭に描いてあるのだろうけれど,実際生徒を動かしながら作り上げていくというやり方である。これが,ステージだけでなくフロアでもそうであったと思われる。すべて,私が想像した通りだった。Yコーチのやり方にはまだ言及がない。しかし,Yコーチが就任する前に鍛え上げられた生徒主導でどの後も作られて行ったと思うので,宮コーチのやり方が踏襲されて行ったと考えられる。一歩踏み込めば,マーチングの基本についてそれほど宮コーチも習得していなかったと思う。現在ではマーチング指導員の講習を受けた人が指導するから,コンテも叩き込まれていると思う。しかし,宮コーチ時代はそういう制度が確立されていない時代なので,ある程度我流でやる人も多かったのではないだろうか。このコンテなし流がわざわいしたこともあり,空白の20年(2001−2020)を生み出したといえる。

 それと,T先生も身についていないようで,フォーメーションのことをコンテと言ったりしていたように感じた。コンテなしのフォーメーションはコンテとは言わない。