おっはようございます。
今朝は、朝もはよから移動です。今から、鈴鹿に行ってそのあと広島。泊まりは、小倉になります。
最近は飛行機になかなか乗れないのが難点ですね。マイルが貯まりません。すっかり陸マイラーとかしております。
昨日は、渋谷で会合に出ておりました。諸般の事情があってどんな会合か詳しく書くことはできません。
というのも、またカミさんに浮気を疑われているのですが、最近さっぱりそんないい話はないのですがね。誰か僕の都合のいい女になってください。といっても、後々面倒なのはかんべんなんで、誰かたまに食事をつきあってくれればいいんですけどね。最近話題がないので、話したつまらないかな。
全く。
さて、そんな冗談はさておき。
昨日はある書籍を買ってきました。
ルパード・スミス 軍事力の効用/新時代の「戦争論」
この本はまだ読み始めたばかりなので書評などは後日。ただ、読み切れるかどうか心配ではありますがね。
まあ、冒頭の10ページぐらい読んで、色々考えさせられました。
この著者は英国の有名な将軍です。多国籍軍を率いたこともあれば、機甲師団の指揮を執ったこともあるそうです。主に陸軍の将軍みたいですね。
そして、彼がこの書著中で語っているのはどうも戦争のやり方が変わってきたということがいいたいみたいですね。
確かに、この何十年と戦争の姿は圧倒的に変わってきました。
戦車と航空機で侵略を行ってその土地を奪うといういわゆる総力戦という形の戦争は、多分サダム・フセインがクウェートに侵攻した時ぐらいなのではないでしょうか?
その後の米軍によるイラク侵攻も、米軍にとっての総力戦からはかなりかけ離れている様相を見せています。このとき、イラクは完全に占領されていますが、何もイラクが米国領になったわけでは無く、程なく米国からの呪縛も解かれて、今ではれっきとした反米国になっています。
また、第二次世界大戦以降国と国が存亡を描けて争うという事態は、朝鮮戦争とベトナム戦争以外は起きていません。
フォークランド紛争、中東戦争(1次から3次)など、従来型の戦争というのはあるにはありましたが、どちらかの国が滅亡するまでやった戦争はありません。
ましてや、今回のウクライナ紛争は、歩兵同士の小競り合いはあっても、爆撃なども無ければ、戦車戦なども起きていません。
このあたりが、最新型の戦争の特徴ですね。
もっとも、総力戦と呼ばれる戦争の歴史はそんなに古くありません。
第一次大戦前の戦争は、インドvs英国、清vs英国などもかなり一方的で有り、カツ局地戦ばかりです。
日露戦争でも、日本にとっては死活問題ではありましたが、万が一負けていたとしてもすぐに本土決戦になったかと言えばそうではありません。
つまり、第1次大戦前は、形勢がはっきりした時点で、停戦⇒戦後処理と進んで、戦争は政治の延長であるということが明確化されていました。
そして、第2次大戦を経て、戦争は元の姿に戻っているのでは無いでしょうか。
まだ読んでいないの、そこまでこの本に書かれているかどうかは解りませんが、戦争はつまり政治の延長。外交の一種の形になっている気がします。
言うことを聞かない相手に対して、こちらの言うことを大きな声で伝えるための戦闘力です。
言うなれば、日本はその手段を持っていないということになりますので、問題児に理性と言葉で対峙する教師のようなそんな立場になっているのだと思います。
集団自衛権や憲法改正というのは、戦争をできる国にするというよりも、近隣諸国の耳をこちらに向けるという意味では、まあ一つ外交手段を持ち得るという程度の意味合いしか持たなくなっているのかもしれません。
日本人は戦争=総力戦と思いがちですが、そもそも世界の流れが総力戦をほとんど想定しない戦力になってきているのでそれは今のことを杞憂でしか無いというわけです。
さらに言えば、核保有国同士の戦争というのも過去にはありませんでした。現在の核保有国は、米英露仏中の常任理事国に加えて、印、パキスタン、北朝鮮が加わり、これにイスラエルが実質的には入っているというのが現状でしょう。これらの国は他国と戦争はしても、これらの国同士の戦いは起きていないということも結構重たい事実ですね。
ただし、第一次世界大戦前までは、人類は複数の国が総力戦を行うという想定は一切ありませんでした。
グローバル化は今以上に進んでおり、各国はお互いを必要として他のにもかかわらず、あのような大戦になって総力戦となってしまった。
ということは、今は想定されていなくても起きない可能性は完全に否定できません。それはそれで想定しておくべきなのかもしれません。
また、機会があれば読後感想なども書きたいと思います。