オヤジの思い出 4 | 53歳 おっさん社長の日記

53歳 おっさん社長の日記

このブログはもう8年ぐらい前から書いております。タイトルも入れ替えて、月に数回書いていきたいと思います。コメントは放置でしたが今後は書くようにしたいと思います。

オヤジの思い出 1と2と3

http://ameblo.jp/photon55/entry-10917832466.html

http://ameblo.jp/photon55/entry-10937964243.html

http://ameblo.jp/photon55/entry-10941617618.html


申し訳ありません。思わず文章が長くなってしまいました。


そのため、このオヤジの思い出は3で終わらせる予定でしたが、この4回目まで引っ張る形になってしましました。申し訳ありません。


まあ、最後はあまり良い結末ではないのですが、中途半端に終わらせるのもなんですから、良かったらおつきあい下さい。




9月1日の夜、午後11時頃僕の自宅の電話が鳴りました。


相手は母親でした。


10時過ぎにフトンに入って寝ていたら、郵便受けがコトリと音を立てた。そして、車が走り去って行く音が聞こえた。


それで、お父さんは、今日は帰ってくる予定だったのに、帰りが遅いなと思っていたので、変だなと思って、郵便受けの中身を見たら、お父さんからの遺書が入っていたというのです。


母親から、その日の事情をあらかた聞いて、次の日に必ず実家に帰るからと言い置いて、電話を切りました。


僕は、入社して1年という節目で清々しい思いで昼を食べて、日本橋の街を歩いていた、その時に、父親は覚悟を決めていたとは。


どうしても、すぐ眠るつもりに慣れず、心配する妻を寝かせて、僕は3時ぐらいまで一人で起きていました。


次の日、会社に挨拶を済ませて、午後には金沢に入り、前日から車で市内を探し回っていた弟と合流して、1日探したのですが、結局見つからず、会社からの要請もあり、確か9月3日は東京の会社に出社しました。


遺書は、オヤジからおふくろ宛、弟宛、そして私宛の文章が3通入っていました。どの文章も自筆で、A4の会社のレポート用紙にびっしりと、それまでの人生と家族への詫びが書かれていました。


私が印象的だったのは、オヤジは自分のことを、ビジネスマンで有り、武士だととらえていることです。そして、仕事が無い人生は、自分の人生ではなく、家族に負けた弱い部分を見せたくないとも書かれていました。どの文章にも、僕は鬼となっておまえ達の上にとどまり、おまえ達の行く末を見守ると締められていました。


子どもの頃はすぐ怒鳴る怖いオヤジでした。夫婦げんかも絶えることなく、母親が救急車で運ばれたことも1度ありました。ですが、オヤジは55を過ぎて自宅ではかなり丸くなりました。、96年には初孫もできて、僕の息子を本当になめるように可愛がってくれました。


たまに、社員が正月に来ると、余りの柔らかい表情を見て、オヤジもこんな面があるんだと驚いて帰るぐらい、社内では怖い存在だったようです。


警察から電話があったのは、9月5日か7日だったと思います。父親らしき遺体が上がったというのです。


そして、オヤジが最後に乗っていた車には、こう書かれた文章が残っていました。


9月2日 午前2時46分 死のうと思って、ここまで来たが、死ぬのは怖い。死にきれない。自分はこんなに弱い人間だったのか。



警察に止められたので私はオヤジの死に顔を見ていません。ですが、本人確認のために、僕が着く前に弟が、見たそうです。白いワイシャツのカフスも首ものともしっかり止めて、ビジネスマンらしい死に顔だったと言っていました。


葬儀のあと、オヤジが一番目をかけて信頼していた営業部長から話しを聞きました。


彼は僕たち兄弟に申し訳ないが、従業員は全員オヤジが怖かった。こんな退任届けなんて、彼なら蹴散らすと思っていた。そのため、8月31日は、退任届けを出した全員が抜け駆けを許さないために、サウナに一緒に泊まったのだと言っていました。


残念ですが、私は、この一連の動きは、どうにも当事者意識がわかず、ただただ眺めていました。何となく機械的に必要なことを処理して行ったのです。誰を恨むでも無く、悲しいわけでもなく、だからといって面倒くさがるわけでもないのですが、どこか他人事のように覚めていたのです。


未だにその感覚は残っていて、それが僕自身を何か後ろめたい気分にさせてしまいます。


ですから、未だにオヤジの気持ちはわかりません。


弟はオヤジの遺言通り小さなレストランを始めましたが、多店舗化に失敗して、かなりの方にご迷惑をかけたようです。以前は、色々相談の電話があったのですが、僕もその損害の5%ぐらいはかぶっており、それが原因でほとんど連絡をしなくなっています。


僕は、去年末に前の会社のオーナーにクビを宣言されてから、仕方がないので自分で会社をはじめました。当初、従業員はカミさんだけでしたが、前の会社の社長が今のパートナーとなって、まだ赤字ですが二人の経営陣で会社を回し始めています。


オヤジの会社の決算を死後見せてもらいましたが、従業員50名、売上は最大で10億円以上、内部留保は4億円の現金がある立派な会社でした。今もその会社は存在しているようです。ですが、家族にとってはもう全く関係も無い、興味も無い会社です。


この文章は、僕がほぼ本名をさらした上で書いておりますので、当時のことを知る方で事実と違うと思われる方がいらっしゃるかもしれません。気分を害する方がいらっしゃる方がいらっしゃるかもしれません。


また、この話は、その前後に様々なことがありましたし、ここの書かれていないことも多数あると思います。


ただ、オヤジの葬儀には、金沢のクラブのママが10名以上お越しになってくれました。それから、その後、弟がある店に飲みに行ったところ、涙を流して喜んでくれたママもいらしそうです。


とにかく無名な男の話しです。良い面も悪い面も際だった人間だと思いますが、しょせん小物です。ですが、たった1人のオヤジです。彼が生まれてこなければ、この浮気性な、飽き性なバカな僕も産まれてこなかったと思うと心からありがとうと言いたい心境にもなります。


そして、いずれにしてももう14年も前の話です。それぞれの当事者の中に鬼籍に入った方もいらっしゃるようです。


1つのけじめとして良いのではないかという思いと、こんなオヤジから生まれた僕がどんな生き方をしていくのかを何となく眺めていただければと思い、オヤジのことを書いてみました。


残念なことに、ともかく怖いオヤジでしたし、自分のことをあまり喋る人間ではなかったのです、オヤジの子どもの頃の苦労も、その時その時で考えていたことも、ほとんど直接聞くことはできませんでした。ですので、全て伝聞ではあります。


ですので、このオヤジの思い出は、全て僕の責任で書かれた文章ですので、問題がある場合はメッセージをいただければ幸いです。キチンと対応させていただきます。


では、長文を最後まで読んでいただきありがとうございました。これからも、よろしくお願いいたします。