先日、息子が夏休みの自由研究用にカード式の手巻きのオルゴールをネットで頼んだんですが、今日届く予定ですとヤマトさんからメールが来ていて、朝1番にヤマトさんが来たけどオルゴールとは別の荷物で、じゃあまた午後に来るのかもねって息子に言って待っていたんですが、待ち遠しすぎて息子はずっとウロウロウロウロ歩く、そわそわそわそわ立ち上がる歩くしていました。

 

「待っている間、そんなにそわそわ歩くしているんだったら、好きなことでもして待っていたらはてなマークあと宿題でもしてたらはてなマークうさぎにっこり」と言ってみたら、「確かにオルゴールが来たら宿題はやらないかもしれないから、今やるびっくりマーク立ち上がる」と言って、さっさと宿題を終わらせ、オルゴールが夕方6時位に届くまで、またずっとそわそわ歩く立ち上がるして待っていました笑

 

 

それを見ていて、わたしたちの希望や願い、本願といわれるものが来ないな〜来ないなぁ〜まだかなぁ〜って待っているのと一緒だなぁおやすみ笑い泣きってすごく感じました。

 

 

 

もうひとつ。

 

息子とポケモンのゲームが秋に発売するのを今からワクワクしながら待っているのですが、秋には発売して手に入るのは既にわかっている。だけど、この待っている間、今回はどんなゲームの内容になるのかなとか、どんなポケモンが出てくるのかなとか、想像しながら待っていたり、ポケモンの公式サイトから出ている内容を見て2人で楽しみにしたりして待っています。

 

 

 

で、この場合、今わたしは、ポケモンの新しいソフトの発売が待ち遠しいなぁってワクワク楽しみに待っている感じもあって必ず手に入るしこれから発売になるソフトだという既に在る感覚もあってまだ手元には届いてないからない感じもある

 

 

 

 

ワクワク待つ喜びもあるけど、すでに在る感じもあるし、まだない感じもある。

 

 

これって現実創造・願望実現と同じじゃんびっくりマークびっくりマークとなりました。

 

 

 

 

既に未来という別の瞬間には在る感覚もありつつ、まだ今は手元にはない状態でもあり、その未来を待っている状態と感じていてもいいんだびっくりマーク驚き

 

 

って感じで、ハッびっくりマーク驚きてなりました。笑

 

でも、確かにそう言われるとまぁそうですよね。笑

 

 

 

 

初めに書いた息子のオルゴールそわそわの出来事はなんだか印象的で、これはわたしの本体さんが何か伝えたがってるなぁと感じてたら、ポケモンのゲームと一緒だなぁとふと感じ、なかなか現実化にならない待つ時間はどうしたらいいんだろうね〜と最近疑問に感じていた答えなと思いました。

 

 

 

 

希望・願いが出てきた時点で、それが叶う世界は既に在る。
だから、その希望・願いを体験する、と意図する。
そして、体験するまでの過程は本体さんや世界にお任せする。
どうせ体験できるんだから、あとは安心して待っていればいいだけ。
 
 
 
でも、そわそわして待っていても歩く立ち上がるどうせちゃんと世界が用意してくれて体験できる飛び出すハートし、
ワクワク楽しみにしながら待っていてもニコニコニコニコ用意してくれたのを受け取るだけ飛び出すハートだし、
あ〜まだ来ない凝視大泣き、いつ来るんだろうぐすん真顔驚き昇天、と心配しながら待っていても、世界はちゃんと用意してくれて、受け取ればいいだけ愛飛び出すハート
 
 
 
 
どんな風に待っていてもいいびっくりマークびっくりマークニコニコうさぎのぬいぐるみ飛び出すハート
 
 
 
 
けど、『待ち時間』っていうのも、地球ならではで、待つ時間をどう過ごすのかも人それぞれで、人それぞれの『待つ』という体験として、『待つ』こと自体にも旨みがあるんだなぁと感じました。
 
 
 
もうひとつ、よく言われる意図の取り下げについても感じたことがあったので、次の記事に書いてみますうさぎのぬいぐるみ飛び出すハート
 
 
 
あ、そうそう、豊かさ・すべて在るという『在る』の0からのスタートと、欠乏・不足という『無い』の0からのスタートでは結果が違うらしい。
 
この世界は、
 
『在る』から意図して『在る』を体験する。
『無い』から意図して『無い』を体験する。
 
って感じになってしまうようだ。
でも、そう言われてみて、過去を振り返ると確かにそうだな〜って感じがします。
 
 
『足りない!どうしよう〜困った!大変だ!』とかいうときは、それがそのまんま叶ってたなぁ。
『こんなのが在るんだ!いいな〜!欲しいな、体験したいな!』っていうときは、それがそのまま叶ってた感じ。ちょっと違うなっていう体験もしたけど、それは必要な氣付きがあったので、多分わたしの本体さんが経験させたのかもしれないと感じました。
 
 
聖書の「初めであり、終わりである」は、まさに「初め」と「終わり」とが同じを意味してたりするのかもしれないなぁとふと思いました。