わんこの散歩をするために家から出たとき、ちょうどライトを持った人が歩いてきて、それにびっくりしたわんこが吠えて大興奮
少しして、わんこも落ち着いたんですが、
わたしはこの出来事・現実をなんのために創り出しているのだろうか
そして、ライトを持って歩いてきた人は「何のためにわたしたちと遭遇するように歩いてくる」という役を演じてくれていたんだろうか
って感じてみていたら、 「あ、わたしも役を降りていいんだ」って、突然感じました。
なんだかよく分からないけれど、あらゆる役をもう演じなくてよいって感じたのでした。
あらゆる役割を降りる。
何の役も演じなくてよい。
ただ私で在るだけでよい。
HIBIKIという存在でいるだけでよい。
母親でも、妹でも、娘でも、被害者でも、加害者でも、裁定者でも、支配者でも、従属者でも、何でもない。
ただのHIBIKIという個を持った「わたし」が肉体を持って今この地球という星に存在しているだけでよい。
すべてのあらゆる存在と、わたしは、わたしという純粋な存在として関わっていったらいいだけなんだ。
と、そう感じたのでした。
役割って、なんだか自分が切り売りされているような、分割されて苦しいような感じがしていたんです。
「親なんだから」、「子どもなんだから」、「妻・彼女なんだから」、「夫・彼氏なんだから」、「先輩なんだから」、「後輩なんだから」、「同期なんだから」、「友達なんだから」、「ご近所さんなんだから」・・・
「〇〇なんだから」に続く「〜しなさい、〜した方がいい、〜すべきだ」というような、よく分からない強制・半強制にさらされてきて、わたしはわたしをがんじがらめにしてきたんだなぁ。
だから、ずっとなんだかよく分からないけど、息苦しくて、自由になりたくて、もがいていたんだなぁ。
だけど、そもそも、わたしたちは自由だった。何者でもなかった。
わたしはわたしだった。ただそれだけだったんだ、と思い出した感覚。
役を演じてもいいし、役から降りてもいい。
始めるのも、終わらせるのも、すべて自分が決めていいし、決められる。
生まれてくることだって、いつか還ることだって、いつにするかって、もしかしたら、自分で決めているんだね。
わたしたちは、わたしたちがそれぞれ創り出している「現実」というたくさんの「ストーリー・ドラマ・演劇」をいつだって始められるし、いつだって終わらせることができる。
それは自分次第であって、ただ、そう、決めるだけなんだね。
どんな役を演じてもいいし、ただ純粋な「わたし」で在ってもいい。
それでふと思い出したのが、イウォーク師匠
純粋なまっさら透明な「わたし」に、色んな設定・フィルターをつけていく。
「美人」「世界から祝福されている」「カンペキ」・・・
設定・フィルターは、役のようなもので、取り外し自由・付け替え自由。
設定・フィルターなしの素のままでもいい。
しばらく、純粋なそのままのわたし、ゼロのわたしでいてみようかなと思う。実験
〜フォトンの庭 HiBiKi 〜
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