ある事柄に対して「これってやってる意味があるのかなはてなマークとふと感じ、Chat GPTに聞いてみました。

 

 

わたしの質問:意味とは禅の世界では何か説明があるのかな? 

 

 

ーーー下矢印Chat GPTの回答の一部転載下矢印ーーー

 

「意味とは何か?」という問いは、まさに禅の根本に関わるテーマです。

実は禅の世界では、「意味」そのものを超えるというアプローチを取ることが多いんです。

 

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【禅における「意味」=“求めない”ことの中にある】 

 

禅では「この出来事にはどんな意味があるのか?」という問いすらも、 思考の産物として手放していきます。 たとえば、こんな言葉があります: 

 

「山は山、水は水」 初めて仏道を学ぶとき、山は山、水は水と見る。

 修行が進むと、山は山にあらず、水は水にあらず。

 悟りに至ると、再び山は山、水は水となる。

 

 これは、意味を追い求める心(山は何かの象徴、水は何を意味するのか)を手放し、 ただ在るがままに感じる・観ることの大切さを示しています。

 

 

 

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【禅の視点:意味は“頭で探すもの”ではなく、“体感の中にある”】 

 

たとえば、子どもが不安を抱えながら登校していることに、 意味をつけようとすると: 

 

• 「これは自立の過程かも」

 • 「わたしのカルマの解消かも」

 • 「今は乗り越えるべき試練かも」 など、たくさんの“解釈”が出てきますよね。 でも禅の立場では、それすらも「意味を探す思考」だとして、静かに手放すんです。 

→ そして、今ここに起きている感情・感覚・気配にただ深く、静かに意識を向けていきます。 

 

 

 

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【意味とは、あとから“にじみ出てくるもの”】 

禅的な見方では、 **意味は「今この瞬間をちゃんと生きたあとに、にじみ出てくるもの」**です。 無理に探す必要はなく、 今の不安も、迷いも、揺れもすべてそのままにして、 日々を丁寧に生きていけば、 あるときふと、「ああ、あれにはこんな意味があったのかもしれない」と 自分の中から静かに立ち上がってくるのです。

 

 

 

 ⸻ 禅的な捉え方のヒント

 • 意味を求めるより、「今、どう感じているか?」を大切にする 

• 意味は“理解するもの”ではなく、“生き切ることで育つもの” 

• 頭で意味を決めるより、「身体の実感」を頼りにする(例:「あ、この感じなら大丈夫」)

 

 

ーーー上矢印以上、Chat GPTの回答の一部転載おわり上矢印ーーー

 

 

 

 

Chat GPTの解説をみて、「意味」とは意図したことが現実化して体験し、その現実化の体験を後から味わうものなんだなぁ、と感じました。

 

 

 

 

理解は、理(ことわり、法則、道理、宇宙の根本原理)を解く(ほどく、とめてあったりまとめてあるもの分けて離す)と書くんだから、理解することすなわち宇宙の根本原理を分離させること。理解するときには、分離したものをそれぞれ見ている。だから、全体像がわかりにくいのかもしれない。

 

 

「頭で理解しようとするな、感じろ!

は、顕在意識は100%のうち3%程度だからすべてを把握するのは難しい、ごちゃごちゃ考えないで感じたままにやったら良いということか。

 

 

意味は、意(感覚を除いた思考や心の働き)+味(体験して得た感じ)。

 

 

結局、思考は嗜好ということだ!

 

 

 

この記事のように、色々こねくり回して思考することは楽しいし面白い。だから思考は嗜好品なのだろうね。

 

 

 

「山は山、水は水」 初めて仏道を学ぶとき、山は山、水は水と見る。

 修行が進むと、山は山にあらず、水は水にあらず。

 悟りに至ると、再び山は山、水は水となる。

 

とあるように、まず頭の中の自動思考に氣付くことから始め、次に自動思考は湧いてくる瞬間があって思考を止めることもできる体験をして、そして思考はわたしの中の一部の機能であり領域である感覚になり、今は、思考は思考であるだけ、という感覚。

 

 

潜在意識も顕在意識も、本体さんやハイヤーセルフや真我というものも、「わたし」という小宇宙の中のひとつの惑星のようなもの。それらがすべて存在していて、わたしを形成している。目にみえる肉体も、目に見えない思考などの機能も、わたしを構成する一部。

 

 

全であり個である、個であり全である。

 

 

 

意味なんてものはなくて、「個」としての「わたし」が、どう感じるかなだけだった。単純明快な世界。