イライラしたときは、「わたし」の中に「何か」が隠れていて、くすぶっている。
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ベッドに仰向けになって、目を閉じて雨の音を聴きながら、ボーッとカラダを感じてみた。洗い流されていく感じが氣持ちいいなぁ・・・とカラダを感じていたら、あるビジョンが浮かんだ。
「わたし」をカタチどっていたカラダの細胞たちがドロドロと溶け出して、消えていく。そのドロドロの中からキラリと何か輝いたものが現れた。
細胞たちが溶け切って、キラリと輝いて出てきたものは「本音」だった。
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さっきのこと。
全然決められない子どもにイライラした「わたし」。学校に行く行かないを決められず、騒いでいる・・・
イライラしたときはとりあえずその場から去る。イライラが継続しやすいから。
「決めたら教えて〜、部屋にいるね〜」と伝えておく。
そして、紙に書き出せるようなら、「イライラしてる、子どもが決められない、遅くてイライラする」とか感じてたことを書き出す。
書き出しながら、「誰かを待つことは昔から別に苦手じゃなかったよな〜なんでだろ?」と思いつつ、誰かを待つときは本を読んだり自分の楽しみをやってたから、全然待つのは苦ではなかったな〜と思い出す。
そんな感じで、思い出したこと、感じたこと、頭に浮かんできたことも、書き出して、くすぶっていることをどんどん外に出していく。
そうすると「本音」がでてくる。
そして、現実の出来事は自分の内側が投影されている。
自分のしていた設定が古くなって今の自分と合わなくなっていたり、理想・願い・本音とずれているときに、表(現実)に現れてくる出来事にイライラしたり違和感を感じたり。
理想・願い・本音は、べつに崇高なものなんかじゃなかったりする。
今日出てきた本音は「あ〜眠い。もう少しゆっくりしたいし、もうちょい寝たい」「自分のやりたいことやる時間が欲しい」だった。
他にも氣付きは諸々出てきたけれど、この2つが今のわたしの「本音」。こんな感じの本音でもキラキラ輝いているの、なんか面白い
紙に書き出して目で見える化すると氣付きが分かりやすく、魂が決めてきた人生とのズレが修正されていく。
そのときすべてに氣が付かなくても全然オッケーなのだ。
原理的にそのうち氣付くようになっている。分からないままだと、現実に起こることがだんだんすごいことになっていく
ほっぺツンツンから、肩トントン、ねぇとちょっと声かけ、おーーーいと大きめの声で声かけ、ちょっと氣付いてよ!!と大きい声で声かけ、体揺さぶららて聞いてるかーーー氣付いてーーー、と段階を踏んで、現実で色々起きてきて、目が覚める出来事が起きたりする。
そこまでいくと結構たいへんだった(経験者は語る。笑 そして、みんなも結構大変なこと起きたりしてると思う)ので、早めに氣付いたほうが楽しく人生送れるかな〜と思う。なので、何か起きたときは、なるべく紙に書き出して、自分の思っていること・感じたことをアウトプットしている。
冒頭の話に戻って、学校に行くか行かないか迷ってた子ども。全然決められないのを見ていてイライラ。早くしてくれ〜〜と感じるわたし。
その出来事の中に隠れていた「わたし」の「本音」たち。
「あ〜眠い。もう少しゆっくりしたいし、もうちょい寝たい」「自分のやりたいことやる時間が欲しい」という本音。
そして、今は学校についていって子どものフォローをしているので、学校に行くとほぼ自分の時間がなくなる。
その結果、息子はプールの時間のシャワーだけ浴びる(シャワーだけなのか笑)から行きたいと言ってたのに、学校に行くか行かないか悩みだし、行かないと言って、雨までザーザー降り出した。
この現実を創り出した「わたし」。
そう考えると、すごいよな〜といつも感じる。
「わたし」たちの本音の願いはすぐに叶っている氣がする。
そこを感じたら、なんだか胸がほんわか温かくなって、「有り難いな〜」と感じて、嬉しい氣持ちになった。
ちなみに、子どものフォローで学校に行っているのも、わたしの魂の願いがある意味叶えられている感覚。
でも、疲れてきたので、今日は無理せず休ませてもらおう。
学校の子どもたちも、先生たちも、みんな優しくて、ありがたい。
子ども産む前までは、子どもと接する機会があんまりなくて、子どもに対してどう接したらいいか分からず苦手意識を持っていたけど、子どもを産んで接する機会が増えていくうちに、子ども(自分の子ども以外の子どもたちも含む)が嬉しそうに楽しそうにしているとこっちも嬉しくて、なぜか涙が出てくること多い。笑
みんなかわいい天使だわ
でも、人間は悪魔になるときもある笑
白も黒もあっていいのだ。すべてあるから宇宙なのだ〜