生きるチカラ。
せいめい・生命・声明・姓名・晴明・清明・セイメイ・・・
今日は、早朝でもないのに、珍しく海が澄んだままで、ゴミも全くなく、すんごく綺麗だったので、息子と今年初の海水浴をしてきた。
目を閉じて、大の字になって、海にプカプカ浮かぶ。
人々の声。海の音。波の音。飛行機の音。太陽の熱。色んなイノチのザワメキや鼓動が聴こえる。
その中のひとつの「わたし」というイノチ。
でも、「わたし」も、たくさんの細胞、細胞はさらにたくさんの素粒子たちから成り立っていて、「わたし」は、もはや「われわれ」。
われわれ・我々・割れ割れ・ワレワレ・・・
宇宙も元はひとつだったのが爆発して、散り散りになったんだっていう話があった。
じゃあ、「わたし」はその宇宙の素粒子が集まってできたんだね。
「わたし」のために、集まってくれてありがとう。
今一緒にいる素粒子たちのおかげで、この「わたし」の肉体は維持されているんだね。
細胞の中には、いつの時代から一緒にいるのかすら分からない、ミトコンドリアという別の生命体だとされるイキモノがいる。ミトコンドリアのおかげで、エネルギーがつくられ、たくさん活動できるカラダが保たれている。
腸の中には、数えきれないほどの腸内細菌たちが暮らしていて、もしかしたら、わたしたちは細菌によって行動が左右されている?!ともいわれたりもしているくらい、お世話になっている。
皮膚にも常在細菌たちがいてくれているおかげで、皮膚のバリア機能が高められたりしている。
「わたし」はひとりのようでいて、全くもって「ひとり」ではないんだなぁ、と改めて思う。
たくさんの存在が一緒にいつもいてくれるおかげで、「わたし」は成り立っていたんだ・・・。
と、そう思うと、生きていることって、本当に不思議で、有り難いことなのだと、つくづく感じるのだった。
生命はすごい。イノチのかがやき。煌めき。
海に煌めく光たちのカガヤキ、サザメキ。そのひとつになれた感覚。でも、昔からそうであった感覚。すべてひとつである感覚。すべてがひとつひとつである感覚。色んな感覚が錯綜しているような、単純なような不思議な感覚。
この不思議な感覚が、なんだか、ゆらゆら揺らいでいる海の波みたいで、なんだか安心するような感覚。
あ、そういえば、早朝、父を車で駅に送っていて、橋を渡りながら川の水面が鏡状になっていて、「湖だけじゃなくって川もなるんだ〜初めて知った!」って言ったら、「これは朝凪(あさなぎ)。朝凪と夕凪っていうんだ。海からの風と陸からの風が切り替わるとき、無風になる瞬間があって、そのときに凪になって、水面に波が立たないんだ。」と父が教えてくれた。
波があっても安心するし、凪いでいても安心する。あ、「凪ぐ」って、「風」の真ん中の字が「止む」になっていて、風が止んでいる状態を表しているんだね。分かりやすい考えた人、賢いな〜
何かが切り替わるとき、一瞬静かになるんだね。
コロナの騒めき(ざわめき)が終わって、今はなんとなく静かな感じ。そして、少しずつ、次の騒めきが少し先から聴こえ始めたような感覚。
すべてのことが、色んな人生の氣付きになっているんだろう。
わずかな感覚だから、見逃しちゃいがちで、まぁいいやって後回しにしがちで・・・。
でも、それって「あれ?なんだったっけ?」ってすぐ忘れちゃうから、そのとき感じてやらないと、もう忘れ去られちゃったりする。
繊細に、、、微細に、、、細胞と細胞の間を感じていくような感覚。。。
そして、すべての感覚が撚り合わさっていくような感覚。
よりあわす、寄り会わす、捻り合わす、拠り合わす、憑りあわす。憑りは、よりって読むんだ。初めて知った。
「憑り」は「移る」という意味らしい。伝染する、次の段階へ進む、転ずる、など。だって。
なんか意味深な言葉がでてきたけど。笑
まぁ、大の字になって、目を閉じて、世の中の流れにプカプカゆらゆらと浮いてみて、微細な感覚と大きな感覚を感じつつ、どうするのかハラで決めていくってことなのかな