熊本城は加藤清正が薩摩の島津家を見張る為に造った城。
(本当は豊臣秀頼を迎えて徳川家に一矢報いる為・・・かもしれないけれど。)
それが270年の時を経て現実の事となったのが『西南戦争』。
熊本城の別名「銀杏城」の由縁ともなっている本丸御殿前の大きな銀杏の木。
有名な話だが加藤清正は「この木が天守より高くなった時、城に異変が起こるであろう。」と
予言していたという。
そして実際に銀杏の木が天守閣より高く成長した時、西南戦争が起こったとか。
熊本城の大天守閣は3層6階プラス地下1階の造りで、石垣の上からでも高さは約30メートル程もある。
「本当にそんなに高く銀杏の木は生長するんだろうか?」
前々から疑問だった。(まあ、歴史とは関係ないけどw)
で、ちょっとネットで調べてみたら・・・一年で30センチから50センチ程成長するらしく、
50年もすれば20メートルは越えるとの事。
実際に30メートル以上の高さがある樹齢400年の銀杏の木もあるようで。。
ならば・・・この「言い伝え」も本当かもしれない。
居間現在、本丸御殿前にある大銀杏の木は西南戦争の際に戦火で燃えてしまったらしいのだが、
芽吹いた脇芽が成長したもので130年でこの大きさにまで成長しているんだとか。
もしまた、この大銀杏が天守閣よりも大きく成長する時が来たら・・・どうなるんだろう?
なんてw
そんな西南戦争の戦いの舞台となったのがこの熊本城。
鹿児島で挙兵した西郷隆盛率いる1万数千人の薩軍はまずこの熊本城に置かれた熊本探題を攻めた。
守る熊本探題の兵の殆どが農兵だったことから、当初は簡単に落ちると考えていたらしい。
が、熊本城は凄すぎた。
高い石垣の上から猛烈な射撃を受けて撃退されたのだ。
実際に訪れてみると分かるのだが・・・本当に熊本城の石垣は凄い。
築城の名手である加藤清正が全身全霊を込めて作り上げた城なのだから無理も無い。
西郷隆盛も熟考の末に熊本城の強攻の中止を決めた。
ただ、この西南戦争の熊本城での戦いの3日前に熊本城の大小天守閣は燃えている。
薩軍の密偵の放火説や失火説など色々説があるようだが、現在は熊本探題を守る谷干城(たにたてき)陸軍少将が薩軍の攻撃に備えて火を放ったと言う説が有力のようだ。
もし・・・この時に燃えていなければ(太平洋戦争の空襲でやはり燃えてしまったかもしれないが)、
天守閣が残っていれば間違いなく熊本城は姫路城と同じ様に世界遺産になっていたに違いない。
が、この時は戦争なので戦略上仕方なかったのだろうけど。。
本丸御殿下の「闇り通路」からは瓦や壁土などがこの時の火災で溶け合って固まったものがいくつも発掘されている。
それほど凄まじい火災だったらしい。。
そんな熊本城包囲に3千人を残し、主力は山鹿、田原、木留方面へ分かれて移動した。
その中でも最も激しい戦いになったのが
『雨は降る降る じんばは濡れる 越すに越されぬ田原坂』で有名な田原坂での攻防。
実際に訪れてみるとそんなに険しい坂道でもない、ごくごく普通の坂道に見える為に
何故ここがそんなに壮絶な戦いの舞台になったのか不思議だった。
だが、その理由に納得。
熊本城を守る為に加藤清正が熊本城の半径15キロメートルに渡る道を深く掘り込んだ凹道としていたのだ。
なんと、こんな所でも加藤清正が!
熊本城の堀だけでなく、こんな遠くまで道を掘りに掘っていたとは・・・。
本当にどれだけ凄い人なんだと感心せずにはいられない。
熊本城が史上最強の城と呼ばれる訳が分かった気がする。
田原坂での戦いは熾烈を極めた。
一日平均32万発の銃弾が飛び交い、「かちあい弾」と呼ばれる空中で銃弾同士がぶつかり合った形でいくつも発見されている。
官軍は判明しているだけでも2400名が田原坂の17日間の激闘の末、戦死している。
(復元された『弾痕の残る蔵』:田原坂歴史資料館)
そんな田原坂。
訪れるのはこれが2度目。
初めて訪れた時になんとなく暗くて怖い坂道だった記憶があったの為に多少ビクビクしながら車を進めたのだが・・・、県道31号線側から右折して田原坂に入ったその時・・・
iPodをFMラジオに繋いで音楽を流していたのだが、田原坂の「一ノ坂」にさしかかった瞬間、
突然ラジオの周波数が勝手に切り替わり「ザーザーザーザー」と言う砂嵐音が!
驚いた。
心底程驚いた。
これってやっぱり・・・。
ハッ!
気が付けば後ろの座席に「島津の丸十字」の幟を積んでいる私。
だから・・・か???
それにも負けずに清正公が掘り込んだ高い土手の中を進んで行く。
奥には田原坂歴史公園が。
一応館内は写真撮影禁止との事だったので写真は撮らなかったが
薩軍と官軍の軍服を着たマネキンが・・・妙に怖かったw
でも、このマネキンが意外と重要。
薩軍の兵士が着用していたのは木綿の着物にわらじ。
ずっと降り続いたと言う雨の中で木綿の着物は水を吸い重たくなって動きが鈍くなり、
わらじは雨と泥の中でプツプツと切れ、先込めのエンピール銃は火薬が水を吸って不発になったと言う。
対する官軍は水に強いラシャの軍服に皮の軍靴、加えて雨の中でも発射出来る元込めのスナイドル銃を使用していた。
結局この軍備の違いが勝敗を分けた。
田原坂は官軍に陥落した。
その間ずっと籠城していた熊本城は田原坂を抜けた官軍が到着するまで持ちこたえた。
清正の築いた城が明治に入ってもその堅城ぷりを証明したのである。
西南戦争の最後に鹿児島の城山で西郷隆盛が自刃する時も
「官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ。」と言ったとか言わないとか・・・。
熊本城。
日本で最後の日本人同士の戦いの舞台となった城。
ここから新しい日本が生まれたのかもしれない。