佐土原城 〜宮崎県宮崎市佐土原町〜 | 旅するカメラ

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私は島津家が好きだ。興味がある。
特に戦国時代の島津義弘を尊敬している。
島津義弘と言えば関ヶ原の戦いにおいて西軍として参加する事となってしまったが、
戦いの帰趨が明らかになると他の西軍の将兵が背後に逃げる中、
義弘は薩摩へ帰る為に敵の総大将である徳川家康の陣地を横切ると言う前進退却を決断した。
いわゆる『島津の退き口』と言われるものである。
初めはその気迫に押されてただ見ていた家康もハッと我に帰り島津軍の追撃を指示。
ここから島津軍の壮絶で長い郷里への道のりが始まる。

島津軍は義弘の退却を擁護して次々と殿(しんがり)線を行い、壮絶な討死を遂げた。
その中に義弘の甥にあたる島津豊久がいた。
大将である伯父を守る為に自らを盾にしたのだ。
今でも豊久が関ヶ原の合戦時に着用していたと言われる甲冑が残っているが(『紺糸威腹巻』個人蔵・尚古集成館寄託)、
槍で突かれた跡や刀傷が至る所に残っており壮絶な最期を伺い知る事が出来る。


そんな島津豊久が居城していたのが今は宮崎市となった佐土原町にある「佐土原城」である。

佐土原城


もともとは島津家と南九州の覇権を争っていた伊東氏の居城だったのだが
高城決戦(耳川の戦い )にて島津軍に破れ豊後に逃れたため、その後島津家が入城したのだ。
豊久が関ヶ原の戦いで戦死したあとは一時天領となったらしいがその後再び島津が入封。以後明治まで続いたそうだ。

私の中では佐土原城と言えば伊東氏の本拠地と言うイメージが強いのが
最近新しく復元された「鶴松館」と呼ばれる御殿を実際に訪れてみると瓦の家紋も島津の丸十字だらけ。
ちょっと嬉しい。

佐土原城



でも、もともと佐土原城は山城だった。
復元御殿の裏手の山がそれである。

佐土原城


どちらかと言うと山城の方に興味があったので係のおじさまに訪ねてみると
「時間があるんだったら山城の方へ登ってみたらいいよ。往復30分ぐらいかかるけどね。」との事。
御殿内部も資料が展示してあり、本当はゆっくりと見てみたかったのだが
珍しく私の他にカップル(30代後半~40代??)が見学しており何やらお邪魔な雰囲気が漂っていたので
そこそこに退散。
いざ山城目指して出陣したのであった。


が、道がよく分からない。
係のオジサンに聞いていたのだがすぐ裏手から登れると思っていたのだがどうやら少し奥の登り口から入るようだった。
ここで多少時間をロス。
案内標識も何も無いため本当にそこが山城への登り口なのか分からないまま薮を踏み分けて中へ入る。

が、係のオジサンの気軽なニュアンスとは違ってかなり草木が覆い茂っていた。
しかも夕方近いとは言え外は明るいのに山の中はうっそうとしていて薄暗い。
しかも道はだんだん悪くなりクモの巣でベタベタになってきた。

佐土原城



ここであっさりと退散w

もう一度、午前中の明るい時間に再チャレンジする事に決定。
以前も書いたが私は無理をして山城に入るチャレンジャーではないのである。
無理は禁物(笑)


それにこの後、もう一ヶ所行ってみたい場所があったから・・・という理由もある。


と言う訳で実に中途半端な感じで佐土原城攻め終了。
次回に期待。





追記。
でも、佐土原城近くの地名は実に雅なものが多い。
これは最も伊東氏の中で勢力を誇った伊藤義祐(いとうよしすけ)の時代に京文化に憧れて佐土原城に条坊制を敷き、
地名を「祇園」・「愛宕」・「清水」等と優美なものに改めたから。
今では全くと言っていい程その雅さを伺い知る事は出来ない風景が広がっているのが少し悲しさを誘うのであった。




佐土原城

私が一眼レフカメラを取り出して御殿の写真を撮り始めると手前の駐車場で遊んでいた子供達が
「すげー、写真とか撮りよう。」(翻訳:「なんでこんなとこ写真とか撮りようとかいな。」)と言っていた。
君達にはまだここがどれだけ凄い場所だか分かっていないのだろう。
きっと大きくなったら「俺たちお城で遊んでたんだぜ!」と威張る日が来る・・・かもしれないのだよ。
なんて。