ISCM国際現代音楽協会の<世界音楽の日々>音楽祭100周年に寄せて、
開催から23年が経過したISCM横浜大会の回想録を続けています。

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四年前の2020年は、1930年に新興作曲家連盟として産声を上げた
現 特定非営利活動法人 日本現代音楽協会(通称:現音)の
創立90周年にあたりました。
現音は、1922年に創設された国際現代音楽協会(ISCM)に、
非西欧系国としては最も早い1935年に加盟をして、その日本支部となっています。
そして2001年に、長年の懸案であったISCM世界音楽祭を
日本が主催して開催できたのでした。
このところ、その音楽祭の開催準備秘話や
実際に開催した各演奏会等のイベントについての回想録をアップしています。

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<ISCM世界音楽の日々2001横浜大会
   ~日本現代音楽協会新世紀音楽祭>
公演回顧シリーズ vol.18

《室内楽Ⅳ》バートン・ワークショップ
             “イヴニング・コンサート”
10月8日(月)19:00開演/
          横浜みなとみらいホール 大ホール

1) Frank DENYER(イギリス):
        THE HANGED FIDDLE (1972-73)  

2) Martin MAREK(チェコ):
        沈黙の声(2000/日本初演)

3) Michael EDLUND(スウェーデン):
        ヴィオリン・ソロのための(1997-99)
   vn.=マッツ・セッテルクヴィスト

4) 福士則夫(日本):
        春霖(1999-2001/改訂初演)

5) James FULKERSON(アメリカ/オランダ):
        Three Pieces(1999-200/日本初演)

6) 南 聡(日本):帯/一体何を思いついた?(1998)

7) Ricardo NILLNI(アルゼンチン):
          組曲「TWIST」(1999/世界初演)

演奏:バートン・ワークショップ 1) 2) 4) 5) 6) 7) 
vn.=マッツ・セッテルクヴィスト 3)
   (出品作曲家の氏名による特別出演)

1) 4) 演奏者推薦作品
2) 3) 7) プログラム委員会調整作品
5) JSCM音楽祭出品作品
6) 国際審査会入選作品

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ISCMの世界音楽祭という国際イベントとして、
海外演奏団体の参加も是非実現したい要素でした。
しかし、現実問題としては渡航費や滞在費も含めて
招聘経費を全て主催者側が負担しながらの実現は、
非常に難しい財源状況でした。

そのような中で、2001年当時のISCM国際本部の拠点=
ガウディアムスのあるオランダから
現代音楽アンサンブルを送り込んでくださるという、
大変ありがたい国際交流協力の申し出がありました。
それが、この<バートン・ワークショップ>でした。
アメリカ出身の作曲家・トロンボーン奏者=
ジェームズ・フルカーソン氏によって1989年に設立され、
アムステルダムを拠点として活動を展開している
現代音楽室内アンサンブルです。

演奏は、非常にヴィヴィッドな感覚に溢れたもので、
定期的に「ワークショップ研究」を行なって
切磋琢磨しているこのアンサンブルの一体感が
有効に作用した演奏を全ての作品で聴くことができました。

・・・バートン・ワークショップのステージ・・・
$松尾祐孝の音楽塾&作曲塾~音楽家・作曲家を夢見る貴方へ~-バートン・ワークショップのステージ

・・・福士則夫作品に拍手!・・・
$松尾祐孝の音楽塾&作曲塾~音楽家・作曲家を夢見る貴方へ~-福士則夫作品に拍手!

・・・南聡作品に拍手・・・
$松尾祐孝の音楽塾&作曲塾~音楽家・作曲家を夢見る貴方へ~-南聡作品に拍手!


この団体の来日を得たことによって、
<ISCM世界音楽の日々2001横浜大会>の
国際現代音楽祭としての体裁は更に向上しました。
バートン・ワークショップとオランダ当局の協力に、
心より感謝した次第です。

終演後には、実行委員長執務室を兼ねたホテルの居室を
会場として、プライベートな懇親会を催して、
強行日程で翌日直ちに帰国する演奏者の労をねぎらうと
共に、演奏家と作曲家と実行委員会関係者との
交流のひとときを持ちました。

こういった事が自在にできたことは、
拠点会場とホテルが隣接しているという
絶好のロケーションの賜でした。
「横浜みなとみらい」の地で開催できたことは、
当時の唯一の可能性であったこととこもに、
本当にありがたいことだったのです。