2023年度は、ISCM国際現代音楽協会創設100周年にあたります。
第1回国際現代音楽祭<Would Music Days>が
1923年にザルツブルグで開催されてから100年が経過しました。

つい先日の1月7日には、ISCM日本支部である(特非)日本現代音楽協会の主催で、
<ISCM"世界音楽の日々"100周年記念コンサート>も開催されました。

そこで、ISCM100年の歴史の中で唯一の日本開催大会となり、
また私の人生の中での最大級の経験となった、国際フェステフィバル開催の
実行委員長体験談を綴っていきたいと思います。

尚、その主催の中心となった日本現代音楽協会(ISCMの日本支部)
(現在の特定非営利活動法人日本現代音楽協会)は、
2020年に創立90周年を迎えました。

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2001年に日本現代音楽協会が総力を挙げて実現した
謂わば現代音楽界のオリンピックに相当する国際現代音楽祭、
<ISCM世界音楽の日々2001横浜大会>で、
私は実行委員長を務めて制作総指揮を担当しました。
その経緯や苦労話を私なりの回想録として、
今日から暫くの間、再アップしていこうと思います。
20年前の開催に向けての時期の想い出です。

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International Society for Contemporary Music
=ISCM=国際現代音楽協会は、現代音楽界の作曲家の
国際統括団体として、1922年に設立され、
1923年にザルツブルグで第1回音楽祭を開催、以来、
第2次世界大戦中に一時中断はあるものの、
加盟国持ち回りで毎年世界のどこかで現代音楽祭を
開催してきています。

設立初期の音楽祭では、シェーンベルグ、ウェーベルン、
プーランク、ストラヴィンスキー、バルトーク、ヤナーチェク、
ラヴェル、といった作曲家達も作品を発表していました。

ISCMの音楽祭の開催スタイルは、加盟国及び世界から出品作品
を募り、そこから(その都度組織される)国際審査会で選曲して、
そこで選曲された入選曲を主体としたプログラムによる演奏会を
集中的に開催するというものです。

日本では、1930年に新興作曲家連盟として設立された
現在の日本現代音楽協会が、1935年に支部加盟して、
戦前には、1937年パリ大会に外山道子「やまとの声」が
(但しパリ支部会員として)日本人初入選を果たし、
1939年ワルシャワ大会での小船幸次郎「弦楽四重奏曲」の
日本支部から初入選がそれに続きました。

第2次世界大戦で枢軸国側であった日本は一旦除名されますが、
1949年に再加盟を許されました。
そして、翌1950年ブリュッセル大会での箕作秋吉「芭蕉紀行集」
の入選を皮切りに、ほぼ毎年、しかも年によっては複数の
日本人作品(日本支部提出作品)が入選し、
プログラミングされ、上演されるようになっていきました。

注)歴代入選曲のリスト等、ISCMの情報については、
日本支部である「日本現代音楽協会」のサイトの
「ISCM」のコーナーをご参照ください。
http://www.jscm.net/?page_id=32

そして、1960年代から1970年代にかけて、
日本が驚異的な経済成長を成し遂げて
世界に冠たる経済大国になってくると、
「ISCM世界音楽祭を是非とも日本でも開催すべき」という
国際世論が形成されていったのです。
しかしながら、前衛芸術の世界大会を日本に招致するという事は
社会的な認知度にしても財源の確保の面でも非常に難しい課題で、
しかももしも開催する場合に主体となる日本支部である
日本現代音楽協会の内部の意志統一さえもが困難な状況が続き、
結局1990年代まで日本大会の開催は実現しませんでした。

1988年にISCMとACL(アジア作曲家連盟)の合同開催となった
<ISCM-ACL世界音楽の日々'88香港大会>に
<ACL青年作曲新人賞>コンクールのファイナリストとして参加
した私は、初めてISCMの存在を強く意識するようになりました。
そして、1992年ワルシャワ大会に拙作=
<飛来Ⅳ~独奏ピアノを伴う室内オーケストラの為に>が入選し、
支部正代表としてISCM総会にも出席して、
そこで各国の代表や作曲家達に「日本はまだ開催していないのに、
君の作品は演奏されている・・・」等と、再三にわたって
チクチク嫌みを言われる経験もしました。

丁度その1992年の総会で、準会員制度の本格的な審議が始まり、
翌年の1993年メキシコ大会での総会において、
その適用第1号として、(社)日本作曲家協議会が準会員として
加盟を承認されるに至ったのでした。
この年も私が日本現代音楽協会(日本支部)からの正代表として
出席していましたので、私はその準会員制度の誕生と
最初の準会員の誕生の場に居合わせたことになりました。
(社)日本作曲家協議会(以下「JFC」)は、その時既に
<ACLアジア音楽祭'90/東京-仙台>の開催を見事に成功させた
実績を持っていましたので、総会全体としては、
「正代表である日本現代音楽協会(以下「現音」)と
準会員として加盟したJFCが一致協力して、
日本大会開催を早期に実現して欲しい」
という雰囲気でまとまっていたように感じられました。

私は、この2回にわたるISCM総会出席の報告を、
支部代表を務めた者の当然の責務として、
現音の委員会(現在の理事会)において行ないました。
準会員制度の採択には戸惑いを感じる委員(現・理事)もあり、
かなり物議を醸しましたが・・・
まだ駆け出しの若造であった私ですが、
「日本開催の早期実現を国際本部も加盟各国も求めている」
事も、併せて強くアピールしておきました。

一方、1992年度に「第16回音楽之友社賞」を現音が受賞した際
その祝賀パーティーの席上で、当時の委員長(現・会長)
であられた三善晃氏が、「ISCM音楽祭を今世紀中に招致したい」
という趣旨の発言を含む挨拶をされたのでした。

このような状況の中で、現音とJFCは、
遂に合同協議を場を持つことになり、近い将来のISCM音楽祭の
日本開催の可能性を検討することになったのでした。
しかしながら、事はそうそう思うようには捗りませんでした。
両団体の思惑の違い、
二つの団体が協力して開催することのメリットとデメリット、
当時有力な開催候補地であった仙台の動向の変化、
といった要素が複合・複層して、
結局は次第にトーンダウンしていったのでした。

正に・・・
<ISCM世界音楽の日々2001横浜大会>への苦難の道のり
の始まりでした。

・・・<WMD2001横浜>プログラム冊子の表紙・・・
$松尾祐孝の音楽塾&作曲塾~音楽家・作曲家を夢見る貴方へ~-WMD2001冊子・表紙