このブログのマーラー交響曲談義も、いよいよ最終回、
今日は、交響曲第10番です。

晩年のマーラーは、ベートーヴェン以降の作曲家が、
第9番を越えて交響曲を書いていないこと、
つまり第9番を書くか書かないうちに鬼籍に入るという事を、
非常に強く意識していたようです。

指揮者・作曲家として確固たる地位を獲得していった
壮年期のマーラーでしたが、一方では、
若く美しい妻=アルマの恋愛に悩んだり、
また自身に生来の心臓疾患があることが判り、
自分の人生に残された時間があまり長くはないのではないか
という予感を強く抱いてたり、心の葛藤があったようです。

それでも、交響曲第8番「千人の交響曲」までは、
ベートーヴェンが第1番から第9番まで
上り詰めていったような、
漸進的・前進的進化の様相を見せていましたが、
あの記念碑的大作=第8番の初演の大成功の後、
いよいよ次は第9番という段になって、マーラーは
その「9」という数字の呪縛に自ら陥っていきます。

まずオーケストラ歌曲の集積のような特異な作品=
交響曲「大地の歌」を作曲したのです。
その後で満を持して、自分は既に交響曲を9曲書いたという
自信を持って、第9番を作曲したのです。
交響曲を第9番までと「大地の歌」を書き上げて、
「これで交響曲を10曲書いたのだから、もう大丈夫!」
という自己暗示の下に、今度は交響曲第10番を書き始めます。

しかし、その半ばで命がついえてしまい、結局は
番号付交響曲としては「第9番」までしか完成できず、
ベートーヴェン以来のジンクスは
生き続けることになってしまったという訳です。

前置きが長くなりました。作品を見ていきましょう。

第9番で器楽のみによる交響曲に立ち返ったマーラーは、
この第10番も器楽交響曲として構想したようです。
残念ながら、第1楽章を完成させた後、
後続の楽章のスケッチを書きかけの段階で、
マーラーは亡くなってしまいました。

その第1楽章は、前作=第9番の終楽章の残映のような
厭世的でロマン的な情念が漂う楽想に包まれています。
再三登場するヴィオラによるモノディー主題をトピックとしつつも、
やはりマーラー流ソナタ形式楽章になっています。
但し、提示部、展開部、再現部、終結部の楽想の差異が更に微妙になっています。
ABABABABABAというような二つの要素による変奏曲と分析することも可能です。
しかし、第二番「復活」の第一楽章を起源とする
マーラー流ソナタ形式の大枠を俯瞰できる方ならば、
二段構えの提示部、二段構えの展開部、
マーラーならではの変容が一段と大胆になって
不協和音が鳴り響くクライマックスを内包した再現部、
そして消え行くように収束する終結部といった構成を
読み取ることも可能でしょう。

それにしても妖しいまでに美しい音楽です。
この第1楽章<アダージョ>だけでも
しばしば演奏されるだけの深い魅力を湛えているのです。

この写真は私の愛聴盤です。
バーンスタイン/マーラー全集
交響曲第8番&第10番からアダージョ
グラモフォン / POCG-1438/9
松尾祐孝の音楽塾&作曲塾~音楽家・作曲家を夢見る貴方へ~-マーラー8&10番/バーンスタイン盤


私個人の印象なのですが、この楽章には、ワーグナーの楽劇
<トリスタンとイゾルデ>に一脈通じる要素も感じます。
♪ ワーグナー/楽劇「トリスタンとイゾルデ」より、
          前奏曲と愛の死
♪ 現代音楽作品
♪ マーラー/交響曲第10番より第1楽章=アダージョ
というプログラムによる演奏会を指揮することが、
密かな私の夢でもあります。

さて、この交響曲第10番でのマーラーは、
第5番や第7番で見せたような、
5楽章構成の器楽交響曲を目指したようです。
デリック・クックの校訂・作曲(補作)による全曲版が
次第に認知されてきていて、時折演奏されています。

第1楽章 アダージョ
第2楽章 スケルツォ
第3楽章 プルガトリオ(煉獄)アレグレット・モデラート
第4楽章 スケルツォ(アレグロ・ペザンテ)
第5楽章 フィナーレ

第1楽章のクライマックスで不気味に鳴り響く
最後の審判を想起させるような不協和音が、
全曲の要所で回帰して、
この交響曲の印象を支配しています。
"煉獄交響曲"をおそらくは意図していたのであろう、
マーラーの未完の交響曲像が浮かび上がってきます。

下の写真は、このクック版の珍しいCDです。
マーラー/交響曲第10番~デリック・クック最終決定版)
クルト・ザンデルリング指揮/ベルリン交響楽団
Deutsche schallplatten / 32TC-72
松尾祐孝の音楽塾&作曲塾~音楽家・作曲家を夢見る貴方へ~-マーラー10番クック版