グスタフ・マーラーは、交響曲第8番の初演で、
交響曲作曲家としての人生最高の成功を収めました。

しかしその後、クラシック音楽界の大ジンクスに
呵まれることになっていきます。
所謂「第9の呪縛」です。

ベートーヴェン以降のシンフォニストで、
交響曲を9曲を超えて発表した者が居ないという
有名なジンクスを強く意識したのです。

シューベルトも然り、
(当時は「ザ・グレイト」が第9番とされていました)
メンデルスゾーンやシューマンやブラームスは4~5番止まり、
ブルックナーも第9番を未完で鬼籍に入ってしまいました。

生来の心臓疾患が判明して自分の死期が
そう遠くないと悟るようになっていたマーラーは、
第9番を書いてしまったら寿命が尽きるのではないかと
考えるようになってしまったのです。

そこで、第9番を書く前に、
番外編としてこの「大地の歌」を発表して、
既に交響曲を9曲書いたのだからもう大丈夫という
自己暗示の下に、次に<第9番>を書いたという
心理的な事情があったのです。

さて、その交響曲「大地の歌」を紐解いていきましょう。
全6楽章構成で、すべて独唱を伴った楽章になていて、
非常に大規模なオーケストラ伴奏付歌曲といった趣の
作品になっていますし、ソナタ形式楽章は在りません。
しかし、作品の精神的な質量から、
やはり紛れもなく交響曲と言える風格を持っています。

第1楽章=地上の悲愁を詠える酒席の歌(テノール独唱)
 李太白の詩による、厳しさを感じさせる楽章です。
第2楽章=秋に独りいて寂しきもの(アルト独唱)
 銭起の詩による、もの思いに沈んだような楽章です。
第3楽章=青春にふれて(テノール独唱)
 李太白の詩による、快活な情熱を放射する楽章です。
 小粒ながらピリリと辛い、スケルツォのような存在です。
第4楽章=美しさについて(アルト独唱)
 李太白の詩による楽章が続きます。
 静かに始りつつ、次第に熱気を孕んでいきます。 
第5楽章=春にありて酔えるもの(テノール独唱)
 更に李太白の詩による楽章が続きます。
 陶酔感の強い楽章で、最後は激しいコーダで音楽を閉じます。
 終楽章を第二部に見立てると、前半5楽章が第一部となり、
 そのフィナーレと位置付けられる楽章です。
第6楽章=告別(アルト独唱)
 第5楽章までが10分以下の規模であるのに対して、
 この終楽章だけは30分を超える規模を持っています。
 孟浩然と王維の詩を組み合わせて使用しています。
 厭世観に満ちた重々しい楽章です。

テキストを東洋(中国)の詩に求めたことが注目されます。
ハンス・ベトゲが大意訳した漢詩集「支那の笛」から七つの詩を選んでいます。
東洋的でありまたユダヤ的であり、独特の存在感と厭世観に彩られた音楽が、
しみじみと心に滲みる作品です。

マーラー自身は、この作品の演奏を聴くことなく、
この世を去ってしましました。とても残念な気がします。


写真は、私の仕事場のライブラリに在るCDです。
ニューヨーク・フィル常任指揮者時代の
レナード・バーンスタインによるマーラー全集の第5巻で、
「交響曲第9番」、交響曲「大地の歌」、そして
「交響曲第10番からアダージオ」が収録されています。

この「大地の歌」のみ、ニューヨーク・フィルではなく、
イスラエル・フィルを起用しているところが特徴です。
(同様に、第4巻の「交響曲第8番」では、
 ロンドン交響楽団が起用されています。)

マーラーの交響曲受容の歴史上、
最重要と目される全集の最終巻にあたります。
若々しいバーンスタインのポートレートが印象的です。

指揮=レナード・バーンスタイン
管弦楽=イスラエル・フィルハーモニック
アルト=クリスタ・ルートヴィヒ
テノール=ルネ・コロ
バーンスタイン/マーラー全集第5巻
CBS/SONY / 73DC 233-5
交響曲「大地の歌」
$松尾祐孝の音楽塾&作曲塾~音楽家・作曲家を夢見る貴方へ~-バーンスタイン盤・大地の歌