ロシア(旧ソ連圏)の作曲家の交響曲を探訪していますが、
今度はプロコフィエフの作品を訪ねていきましょう。

セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ
(Sergei Sergeevich Prokofiev)は、
1891年生まれで1953年没の
ロシアの作曲家・ピアニスト・指揮者ですが、
厳密に言うと、ウクライナ生まれと記すべきでしょう。

プロコフィエフは、現在争乱の地となってしまっている、
ウクライナのドネツク州の生まれです。
2013年に私が指揮者としてドネツクを訪問した際、
飛行機を降り立った所はセルゲイ・プロコフィエフ空港、
演奏会の会場もセルゲイ・プロコフィエフ・ホールでした。

Phonosphere4-b演奏直後

タネーエフ、グラズノフ、チェレプニン、リャードフ、
R.コルサコフ等に薫陶を受けながら研鑽を積んで、
卒業試験でアントン・ルビンシュタイン賞を受賞して、
1914年にサンクトペテルブルグ音楽院を卒業しました。

卒業後にロンドンやイタリア等を訪問して、
ディアギレフにも親交を得て、やがて
バレエ「道化師」や「スキタイ組曲」等の
作品が誕生しました。

1918年に習作を除く最初の交響曲(事実上の第1番)、
「古典交響曲」を書いた後、革命の嵐が吹き荒れる
ロシアを離れて、アメリカへの亡命を決意しました。
同年5月から8月にかけて、
亡命の旅路の途上で日本にも立ち寄り、
東京・横浜・京都・大阪・奈良・軽井沢・箱根、
等に滞在したということです。

その後、1918年からアメリカを拠点として、
1923年からはパリを拠点として活動をしましたが、
次第に祖国復帰を考えるようになりました。

そして短期間の祖国復帰や訪問を重ねていくようになり、
第二次大戦後はほぼ祖国を拠点にする生活になりました。

そのような人生の軌跡の中で、プロコフィエフは、
習作期の作品をを含めると8曲の交響曲を残しています。

<交響曲 ホ短調>(1908年)
<古典交響曲 ニ長調(交響曲第1番) 作品25>(1917年)
<交響曲第2番 ニ短調 作品40>(1925年)
<交響曲第3番 ハ短調 作品.44>(1928年)
<交響曲第4番 ハ長調 作品47>(第1版:1930年)
<交響曲第4番 ハ長調 作品112>(第2版:1947年)
<交響曲第5番 変ロ長調 作品100>(1944年)
<交響曲第6番 変ホ短調 作品111>(1947年)
<交響曲第7番 嬰ハ短調「青春」作品131>(1952年)

第1番「古典交響曲」と第5番が特に有名です。
第6番、第7番「青春」も、時折
オーケストラのプログラムに載ってきます。
しかし、ホ短調や第2番~第4番は今では殆ど聴かれません。
この記事シリーズでは、番号付の7曲を探訪していきます。

明日以降の記事を、どうぞお楽しみに。