このシリーズの前回の記事で紹介した
須田健仁選手と並んで、1990年代の日本ジャンプ陣を
支えて来た有力ジャンパーが、西方仁也選手です。

<冬季オリンピック1994年リレハンメル大会>では、
ノーマルヒル=8位、ラージヒル=8位と
安定した成績を挙げました。
西方仁也・岡部孝信・葛西紀明・原田雅彦の
オーダーで臨んだ団体戦では2位となり、
日本に久しぶりのジャンプのメダル、
団体戦では初のメダルの獲得に貢献しました。

YouTube / リレハンメルオリンピック ジャンプ



ワールドカップでも活躍して、
優勝こそ果たせなかったものの
2位に3回入って実力者ぶりをアピールしました。

ふわふわっと飛躍して柔らかく飛距離を伸ばしていく
独特のジャンプが印象的なジャンパーでした。
大倉山シャンツェのバッケンレコードを
更新した経験を持っています。

YouTube / SAPPORO-OKURA
       HILL RECORD COLLECTION
         by Japanese Jumpers


実は、西方選手は、あの長野オリンピックの伝説の団体戦の
大逆転劇を支えた、陰のヒーローなのです。
代表選手に漏れた西方選手は、テスト・ジャンパー
として大会の運営を支えました。
通常、テスト・ジャンパーには若手が起用されますが、
西方選手は若手に交じってベテランとして参加しました。

皆さんもご記憶の通り、あの団体戦は大雪と風に見舞われた
かなりの悪天候の中で行われました。
4人ずつが飛ぶ団体戦の1回目を終了した時点では、
特に強い降雪と風のタイミングに見舞われた原田雅彦選手の
大失敗ジャンプの影響もあって4位になっていた日本でした。

実はこの時、審判団は競技続行に懐疑的であったそうです。
もしもこのまま荒天が治まらなかったとした場合、
1回でも競技が成立するルールに基づき、
日本はメダルを逃すところだったのです。

そして、二本目の競技を続行するかどうかは、
テスト・ジャンパーの試技を見てから
決定されることになりました。
西方選手は、「自分が失敗すれば競技が終わってしまう」
という自覚を持って試技に臨み、他のテストジャンパーも転倒なく試技を続け、
西方選手は見事に120メートル級の大ジャンプを見せてくれたのです。
この1本が大きく物を言って競技続行が決まり、
日本の大逆転優勝が実現したのです。
素晴らしいチーム愛です!!!

この裏方のストーリーは、後に映画化されて脚光を浴びました。

YouTube / スキージャンプ・原田雅彦、
長野冬季五輪テストジャンパー西方仁也に言葉詰まらせ感謝 
田中圭に金メダルを首にかけるサプライズ 
映画『ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち』



頑張れ日本! がんばろうニッポン!