今年2020年は、1930年に新興作曲家連盟として産声を上げた
現 特定非営利活動法人 日本現代音楽協会(通称:現音)の
創立90周年にあたります。
現音は、1922年に創設された国際現代音楽協会(ISCM)に、
非西欧系国としては最も早い1935年に加盟をして、その日本支部となっています。
そして、2001年に長年の懸案であったそのISCM世界音楽祭を主催できたのでした。
このところ、現音創立90周年に寄せて、その2001年の音楽祭の開催準備秘話や
実際に開催した各演奏会等のイベントについての回想録をアップしています。

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国際音楽祭開催本番を迎えるには、
演奏会その物のプログラムの選定や出演者の手配や
リハーサルを含むスケジュールの策定の他にも、
様々な準備が必要です。
大勢の内外の参加者に対応するための
レジストレーション・オフィスの設置とその人員の手配、
エポックとなる演奏会やパーティーでの英語アナウンスや
海外ゲストの対応のための通訳の手配、
その他、周辺の商業施設との連携による気運の盛り上げや
聴衆動員に向けての広報活動、
併せて開催されるISCMという国際組織の年次総会の準備、
海外や日本各地からの大勢の参加者の宿泊需要に備えた
音楽祭提携ホテルの策定と宿泊者情報の管理、
等々・・・
<ISCM世界音楽の日々2001横浜大会>の開催に向けて、
人員の確保や大会事務局体制の確立や広報活動を
決して潤沢とは言えない予算を慎重に配分しながら、
進めていったのでした。

オフィシャルホテルとしての提携に応じていただき、
毎晩100室の及ぶ宿泊者を厚遇していただいた
パンパシフィックホテル横浜
(現・横浜ベイホテル東急)には、
レジストレーション・オフィスの設置にも
ご協力をいただきました。

$松尾祐孝の音楽塾&作曲塾~音楽家・作曲家を夢見る貴方へ~-ホテルの協力

実際に大会開催前日からオープンした
レジストレーション・オフィスは、
音楽祭参加者の訪問が引きも切らず、
その対応を笑顔で遂行していただいた素晴らしいスタッフ
によって、会期中の明るい雰囲気を支えてくれました。

$松尾祐孝の音楽塾&作曲塾~音楽家・作曲家を夢見る貴方へ~-レジストレーションオフィスの賑わい


広報活動としては、事前の記者発表に始まり、
チラシ・ポスター・音楽雑誌・新聞広告等の通常の宣伝媒体
の活用はもとより、丁度開催会期が重なることになった、
<横浜トリエンナーレ>や<横濱ジャズ・プロムナード>
との連携も打ち出し、横浜の秋を音楽や芸術で
盛り上げようという気運を高めていきました。
また、横浜みなとみらいホールに隣接する商業施設=
クイーンズスクエアや横浜コンヴェンションビューローにも
多大なご協力をいただき、週末や休日のイベント開催や
多数のフラッグやタペストリーの設置等を
大々的に展開していただきました。

2001年10月当時は「みなとみらい駅」が
まだ開業していませんでしたから、
当時の最寄り駅は桜木町駅でした。
そこに架設していただいた横断幕が誇らしげでした。

$松尾祐孝の音楽塾&作曲塾~音楽家・作曲家を夢見る貴方へ~-桜木町駅前の横断幕


更に、広報戦略の目玉として、
“チャンチキトルネエド”を起用しました。
当時の芸大生を中心に結成されたばかりの
現代音楽チンドンバンドでした。
10月3日の開幕の直前の秋分の日を含む週末連休には、
<横浜トリエンナーレ>の会場の一つであった赤レンガ倉庫
のエントランス広場でのプレ・イベントや
クインズスクエアでの練り歩きパフォーマンスを実施して、
音楽祭の一般社会や横浜市民への周知を図っていきました。
更に、会期中の週末連休にも、
クイーンズスクエアに出没していただきました。

チャンチキトルネエドの練り歩きパフォーマンス
$松尾祐孝の音楽塾&作曲塾~音楽家・作曲家を夢見る貴方へ~-チャンチキトルネエド練り歩き

“チャンチキトルネエド”は、
この広報宣伝による露出で一気に知名度が上がり、
後年には横浜市の広報CMにも起用されました。
彼らの活躍は最近まで脈々と続いて、
先年に大人気を博したNHK朝ドラ「あまちゃん」の
テーマ音楽演奏にも参画して一気に有名になりました。
しかしながら、結成から10年以上を経て
メンバー各位もそれぞれの道を生きるということで、
最近になって活動休止を宣言しています。

YouTube / チャンチキトルネエド
      あまちゃんオープニングテーマ (パレード)



開催直前にセプテンバー・イレブンという
世界を揺るがす大惨事に見舞われましたが、
何とか気運を盛り上げつつ、9月30日あたりから
横浜みなとみらいホールでのリハーサルも開始、
私や事務局スタッフも隣接するホテルへの泊まり込み体制となり、
開幕に向けての現場の体制を整備していったのです。