現音とJFCの合同協議の段階では
あまり深く関与していなかった私でしたが、
実現するとするならば現音の単独で推進せざるを得ない
という事が明白になってきた段階から、私の心の中に
「日本開催を絶対に実現してみせよう!」という
ファイトが沸々と湧いてきたのでした。
こういった環境に中で開催の可能性をリサーチしていた
現音は、2001年という21世紀開幕の年にあたるエポックに
開催立候補が皆無という事を知って、国際本部・総会に
対して、2001年開催に向けての立候補を表明しました。
バブル景気も崩壊した直後で、
開催への確信は全く無かった時期でしたが、
いずれ経済も上向きになり何とかなるだろうという
淡い期待も併せての立候補表明だったというところが、
実情であったというところでした。
当時の現音の体制は、委員長は佐藤敏直氏、
事務局長は坪能克裕氏、副会長は松平頼曉氏でした。
これら三役のお取り計らいもあって、
私が対外交渉等を進め易いようにということで、
当時の私に事業部長という役職を新設していただいて、
現音の演奏会企画の策定、対外交渉、
ISCM音楽祭開催の可能性のリサーチ活動等を、
若造ながら進めていました。
一向に開催に向けてのプラス条件が見出せず、
むしろマイナス条件ばかりが立ちはだかる状況が続く中、
立候補断念・撤回という論議も何度も浮上しました。
私は、時に1993年のメキシコ大会の公演数や演奏曲数を
引き合いに出して、「通常年<現代の音楽展>の2倍程度の
規模でも何とかなる」という説得も試みながら、
招致断念という最悪の決断だけは何とか避けながら、
リサーチ活動を続けていったのでした。
しかし、開催の拠点となる都市や施設を決めることさえも
簡単には進められず、リサーチ活動は難航を極めました。
<ISCM世界音楽の日々2001横浜大会>への苦難の道のり、
更に明日の記事に続けます。
・・・<WMD2001横浜>プログラム冊子の裏表紙・・・

あまり深く関与していなかった私でしたが、
実現するとするならば現音の単独で推進せざるを得ない
という事が明白になってきた段階から、私の心の中に
「日本開催を絶対に実現してみせよう!」という
ファイトが沸々と湧いてきたのでした。
こういった環境に中で開催の可能性をリサーチしていた
現音は、2001年という21世紀開幕の年にあたるエポックに
開催立候補が皆無という事を知って、国際本部・総会に
対して、2001年開催に向けての立候補を表明しました。
バブル景気も崩壊した直後で、
開催への確信は全く無かった時期でしたが、
いずれ経済も上向きになり何とかなるだろうという
淡い期待も併せての立候補表明だったというところが、
実情であったというところでした。
当時の現音の体制は、委員長は佐藤敏直氏、
事務局長は坪能克裕氏、副会長は松平頼曉氏でした。
これら三役のお取り計らいもあって、
私が対外交渉等を進め易いようにということで、
当時の私に事業部長という役職を新設していただいて、
現音の演奏会企画の策定、対外交渉、
ISCM音楽祭開催の可能性のリサーチ活動等を、
若造ながら進めていました。
一向に開催に向けてのプラス条件が見出せず、
むしろマイナス条件ばかりが立ちはだかる状況が続く中、
立候補断念・撤回という論議も何度も浮上しました。
私は、時に1993年のメキシコ大会の公演数や演奏曲数を
引き合いに出して、「通常年<現代の音楽展>の2倍程度の
規模でも何とかなる」という説得も試みながら、
招致断念という最悪の決断だけは何とか避けながら、
リサーチ活動を続けていったのでした。
しかし、開催の拠点となる都市や施設を決めることさえも
簡単には進められず、リサーチ活動は難航を極めました。
<ISCM世界音楽の日々2001横浜大会>への苦難の道のり、
更に明日の記事に続けます。
・・・<WMD2001横浜>プログラム冊子の裏表紙・・・
