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2022年7月に書いたことの要約。
リンクを貼ったらキリがないのでしませんがw
これまで書いてきたことと一貫しています。
カオスと線形はとても大事な概念で
この3年のような複雑な要素が絡み得て
かつ長期にわたった事象を
あまりにも単純な因果と決めつけることが
根本の誤り、無理筋なのです。
便利なので成田悠輔氏の言葉を
また拝借しますがw
『複雑な事が起きている時に、何の根拠も論理もなしに、何かが特定の原因だ、その原因さえ摘めば問題が解決しますって断言するのはただの情弱ビジネス以上でも以下でもない』
※注:成田氏のこの言葉はある経済研究者、MMT論者に向けられた物であり、コロナタイサクに対してではありません。
以前書いたように溺死と
アイスクリームの売り上げには
綺麗な相関関係が出ます。
勿論相関であって因果ではありません。
ところがコロナ被害と、
マスクや自粛の間には
それさえ出ないのです。
だから、無茶なコジツケをせざるを得ず
ムリヤリ見つけた相関を
因果と決めつけるような
チェリーで噴飯物の分析結果を
センモンカは平気で出してくるのですが
この仕組みを理解していない
政治家を含め我々一般は
権威・エセ科学の前に
ひれ伏すという悪循環に陥ったわけです。
これを振り払うためには
「王様はハダカだ」というような
極めて単純な価値観で対抗するのも
大変有効ではないかと思うのです。
医療の過干渉は幸せをもたらすのか?
「医原病」もシンプルで共有しやすい
効果的な概念で、安全弁になり得るでしょう。
線形:極めて単純な比例関係
複雑な要素が絡むほど線形は現れにくくなる。
つまり非線形であった物を、
ムリヤリ線形と捉えることに拘り続け
その陥穽に嵌まった3年というのが
スライムの「なんちゃって分析」です。
母(父)原病も含め
信頼して権威にお任せしやすい我々は
医原病に陥りやすい
傾向にあるような気がしています。
臨機応変に「当たり前を疑う」
ことも大切です。
以前ちょこっと書いたABC予想における
『足し算は掛け算より難しい』
にも通底していそうです。
これも我々が抱く常識とは異なります。
だそく![]()
当たり前を疑う、何故足し算の方が複雑なのか
もしこの世に掛け算しかなかったとしたら……
掛け算の世界から数字を見た場合
例えば4(2×2)と21(3×7)という2つの数字があって
これを掛け合わせた84(2×2×3×7)は
元の2つの数字の遺伝子
2,3,7から成り立っていると言えます
ところが足した4+21=25の場合
25(5×5)と全く別の遺伝子を持った数字へと変化し
カオスが生まれるってワケです。
10と言う数字を掛け算から見た場合2×5のみですが
足し算だと1+9とか2+8とか、果ては1+2+3+4とか
幾つにも枝分かれし複雑化するのです。
この世はカオスな足し算
つまり掛け算だけの社会は意外に単純で
あらゆる分析が一気に容易になるのです。
しかしこの世の中は掛け算だけで単純に成り立っている
のではなく、足し算が混じって複雑化していて、
分析は厄介になることを示唆してくれています。
こういった哲学・思想も抱かずに、医学にしろ統計学にしろ
取り組んでしまうのは とても愚かだって事です。
掛け算だけの容易な社会を暮らしているのではない
これが分かっていないからこそ
いざとなったとき、理論と現実の違いに愕然とし
データをこじつける、酷いときはデータそのものをいじる
という冒涜をヘーキで犯してしまうのでしょう。
再びコロナに準えれば、発生当初は「接触率」が主因子と
捉えるのは決して間違いとは言い切れなかったですが
長期化するにつれ足し算の要素が次々と生まれ
より複雑化しているのを無視し、いつまでも
それに拘り続け現実を見なかった傲岸故の
大いなる過ち、と言えるでしょう。
未だにこの泥沼から抜け出そうともせぬ
科学者もどきたちが
我々に過干渉しようとしていますが
そんなものは毅然と振り払うべきなのです。
だそくついでに![]()
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小学校のドリル方式。
同じ事ばかりですが
ドリルの語源は
まさにドリルで穴を開けるが如く
ぐるぐるを繰り返し少しずつ穴を大きく
つまり反復しながら知識を深める
ことに由来しています。
日本に伝わる格言だと
「雨垂れ石を穿つ」
当たり前を疑うことで
少しずつ合成の誤謬から
合成の誤謬補正に移行できないか。
目には目をじゃありませんが
ポピュリズムにはポピュリズムを
空気には空気を
一気に変わるのも危険ですからすこ~しずつ、
従来とは別の角度で物を見つめることで
気づいたらもっと良い世の中になっていた
そんな幻想を抱いているのですw
もひとつおまけに、あぁだそく![]()
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近頃オカシナ空気も感じるんだ
誤解を招きやすいから表現が難しいが
運動家に不自由を利用されているような。
これもカオスなのに、一律線形対応って
言ったら良いのかな。
最近話題のアルファベットのつく法案も
コロナタイサクも通底した何かを
感じて仕方がない。
根本は「困った人がいたら手を差し伸べる」
事だと思うんだ。
コロナタイサクが典型的だったと思うけど
おおげさな大義の前では
「困った人なんか知ったこっちゃない」
と目をつり上げて手を差し伸べるどころか
蹴飛ばしても罪の意識はなくなっちゃうんだな。
まぁ何回も繰り返したことだけど
本末転倒、不自由を抱えた人たちの
足を却って引っ張っているかもよ