大喜利
高齢者との会話ってネタの宝庫。
ある日の夕食
テレビニュースを見ながら
私はコンビニで調達した
クリームパスタを食べていた。
『これ抜群に美味しいけど
具の数が物足りないなぁ』
なんて言いながら。
しばらく経ってから
テレビ画面にはキシダさん。
『防衛増税なんて
支持を集められないよね』
と話しかけた。
すると父がいきなり
「電子レンジを使ったらどうなんだろう」
父もテレビのキシダさんを見つめている。
私
『えっ!キシダさんの政策のお話なのに
電子レンジって一体どういうこと?』
……認知症がやっぱヒドイのか
と口には出さないが不安。
首をかしげていると
更に苛立ったような口調で
「だから電子レンジを使えばいい」
と畳みかけてきた。
『???……』
「ぬるいって今言っていただろう?」
ぬるいなんて言った覚えないし はて……
少し経ってピンときた
・私がパスタを食べながら文句を言っていたこと
・支持を集められない
この2つを重ねて
『シチューが熱めにならない』
と聞き違えていたらしい。
確かにクリームパスタはシチューにも見え
話の整合性は取れている^^;
これって落語じゃん。
「花見の仇討ち」
花見の趣向で本物さながらの仇討ち劇で
見物人を驚かせようと長屋の4人組。
3人で仇討ちの諍いを起こし
残りの一人が巡礼姿で
颯爽と止めに入って大団円という筋書き。
ところが巡礼役がいざ花見の場所に
かけつけようとしたまさにその時
耳の遠いおじさんにであってしまう。
『お前は何で巡礼の姿なんかしているのだ?』
「おじさん、これは花見の趣向です」
『何、相模から四国へ?』
花見の趣向と相模から四国へ 聞き違い。
四国と巡礼姿はつじつまが合っているw
昔の人って余裕があったよな。
年寄りの日常茶飯の聞き違いを
「笑い」に昇華させている。
自分もウッカリ勘違いするところだったが
余裕のなさは時として人を傷つける。
落語はともすれば落伍者とされる人には
とことん優しい目線だ。
ところが私はどうなんだ。
落ち着きさえすれば
楽しい『ネタ』なのに
気づかずに認知症のレッテルを貼ってしまう
可能性もあるんだなぁ と。
普段口数の少ない人だけに
もし一呼吸おいて考えを巡らさねば
誤解したまんまスルーも充分にあり得た。
人それぞれキチンと整合性の取れたお話を
こちらの勝手で電波扱い、切り捨てって
日常でよく見られる光景なのかも知れない。
決して無理筋で笑わせようとしてはない
些細な日常の笑わせる意識なぞ微塵もない
会話にこそ一番の笑いが潜んでいそうだ。
それに気づかぬのは モッタイナイ。
新しいパワハラ
この真逆のこと。
直近3年間(いやもっと長期間かも知れない)
にもつながっていないか。
些細なことを針小棒大に
ひたすら何者かに怯え、楽しくなくなる
方向へ方向へと誘われていた。
敵の「パワー」を過大評価し
勝手に「ハラハラ」しまくる
ハラハラ症候群
これこそが新しい『パワハラ』で
決して好ましいことではなかろう。
些末なことに目くじらなぞ立てず
心に余裕を持って大らかになる
これこそが
いつでも落語の心を忘れないことこそが
平和への近道のような気がする。
老人力
26年前、赤瀬川源平さんによって
唱えられ、一世を風靡した概念。
老化による衰えというマイナス思考を
「老人力がついてきた」という
プラス思考へ転換する逆転の発想。
数年前、連載が始まったばかりなのに
残念ながら突如連載終了となった
山藤章二さんの「手脳会談」(週刊文春)
その中にこんな一節があった。
細かいニュアンスは違ったかも知れないが
年をとって夫婦でアレ、コレ
何だっけ、とすぐには出てこない
ボケを楽しむ会話。
それを聞いていた若い編集者が
すぐにスマホで調べて蕩々と
アレ、コレ、ナニの正体を明かしてくれるのだが
これはお節介でありヤボである、と。
昔、三波伸介さんが
この技術に長けていたそうだが
ボケをギリギリまで引っ張って
それからツッコミを入れる
これも今の時代には求められそうだ。
実際はみんなせっかち
結論を急ぎすぎて
「待つ」ことの重要性
楽しみを忘れているような気がする。
いじょ
ブロ友さんのブログや
いただいたコメントを
読みながら思いついたこと
を つらつらと書き綴りました。
本日もとりとめなき長文に
お付き合いいただき