しょ~もないヒトリゴト。
最初は小学低学年のとき。
授業参観、いつもと違う視線を感じた。
露骨にのぞき込む人もいた。
どうも自分の能力、おひれがついて
まるで神童?であるかのように
伝わっていたらしい。
確かに自分は一度数字や文字をみただけで
ピンとくる能力があったらしく
(例えば期待値を勝手に計算していた)
大人たちから不思議がられていた。
それをシェイプアップすれば良かったのだが
9歳の事件で止めてしまった。
その頃からあんまり伸びていないのだ。
まぁぶっちゃけて言えば、
そのときの能力の残りで
今でも計算をして、コロナ対策は少なくとも
自分には不利益だと思っているわけだ。
そのうちの一つ、ワクチン考察
先行していた米国との比較
「日本人は米国人からみたら既に
有効度93.5%の副反応の全くない
ワクチンを打っている状態である」
「(すぐに全員に打たせるのは愚策)
待たない選択肢はない」
と書いたのは小4の自分だったら
そう計算していたよなぁと思いながら。
だからそんなに高レベルの話ではない。
しかし子ども当時不思議がられたように
今も期待値を計算する大人が
どうやら少ないとしか考えようがない。
少なくともこの事に常に頭を巡らせていれば
子どもにワクチンを集団接種させる選択は
あり得ないからだ。
話がそれた。
授業参観の話に戻ると
私は緊張しやすいタイプだったので
じろじろ眺められたら気になって気になって
腕が縮こまり通常以上に
外見はアフォぽかったはずだ。
そもそもノートとかに綺麗にアウトプットせずに
全て脳内で処理していたから
外面で分かるはずがない。
しかし授業参観後の感想では
『○○君はやっぱりスゴイ。
他の子とはノートが違う』
とお父さんが言っていましたという具合に
過度に褒め称えられていた。
ノートが違うという言葉が頭に残っていて
ずっと恥ずかしかった。
あんな白紙同然、ときおりミミズが這ったような
字が書いてあるだけのノート
完璧な優等生だったO君と間違ったんじゃないか。
でもじろじろ長時間覗かれていたのは事実。
むしろ見抜いてくれていた大人もいたのか。
きれいなノート=優等生と、大人は思うだろう
という先入観があり、釈然としなかった。
外見がオカシイ=アフォっていう先入観
これで徹底的にいじめられて、壊れたから
自分も先入観にとらわれていたのかも知れない。
開放的で、自由。
教師の言うことに逆らってノビノビと
生きていたらどんなに良かったかと思う。
しかし自分は真逆のタイプだったのだ。
決してふざけているのではなくって、
教師の言いつけをシッカリ守り
同じ事をしているつもりなのに
人と同じ事が出来ていない分野が
数多く存在したのであるw
授業参観で言えば教師だけが
多数参観していたときに
一人だけ指示とは違う仕草をしてしまい
教室中に教師たちの笑いの声が漏れ、
肩身が狭い思いをしたのも
今でもハッキリ覚えている。
まだ笑いなら良いんですけどね、笑いなら^^;
セめたらイカンぜよw
