さらに……

過干渉について書いたけれど

私の母がどうだったかを書けば

過干渉だったとおもう。

 

しかし母にとって

それは不本意だったはずだ。

 

例えばなわとび。

普通はなわが置いてあって、

友達がいてとなれば、

自然に見よう見まねで

なわとびが出来るようになる。

 

ところが私の場合、

動作をコピーすることが

全く出来なかった、

歩くこと、走ることの

レベルでそうだったので、

なわとびなんか出来るわけはない。

 

私本人は不貞腐れているとか

従わず覚える意思がないわけどころか

大真面目で試みたところで

いつまで経っても出来ない。

結局はいじめ、

からかいの対象になってしまう。

 

それを助けるために

教師がいるはずだが

彼らもさじを投げて教えてくれない

ずっとお客さんのままである。

繰り返すが私本人に

やる気がないわけではない。

 

なるべく干渉せず様子見していた

母もそれを見かねて、

自らが乗り出した。

随分根気よく付き合ってくれた。

どのくらい時間が

かかったかは分からないが、

前跳びだけは出来る様になった。

運動能力には大きな問題があったが、

根気と集中力だけはあったため、

前跳びの持久競争では、

大抵最後まで残れるようになった。

 

しかし多くの問題を解決するには、

残念ながら母の力だけでは

限界があった。

母は経歴からなのか、

ずっとPTA役員を押しつけられて

私は『鍵っ子』だった。

私自身も子どもにしては

シッカリしていたので

クラス内の重要な事は

全て私に任されていた。

母と担任の間の連絡役も私で

運動能力は著しく劣っていても

信頼されていて

問題は起きなかったのである。

 

ところが小4でそれが変わってしまった。

外見や運動能力を悉くなじられる

PTA絡みのパイプ役を

キチンとこなしても

教師の勘違いを

『お前がボケ~っとしてる』

『たるんでる』

『お前は馬鹿にしてるのか』

『そんな顔して生きてて楽しいのか』

てな具合に延々と説教され、

更にはドロボー扱い。

 

25歳の女性教師のしつこすぎるイジメ

例えて言えば豊田真由子のテープを

更にヒドクした感じのを

授業中から休み時間、給食、

放課後と絶え間なくw

放課後は皆を帰して一人だけ

掃除の居残り特訓だった。

 

9歳で私が日常生活に

支障を来すほど壊れて、

大学病院へ行った。整形外科だ。

今だから客観的に振り返られるが

当時の私は「教師のせいにはしたくない」

という思いが強く、教師のヒドイ仕打ちを

細かく口にしなかったから

元の運動能力の欠如を

更に助長させたであろう

もう一つの重大因子まで

想像が及ばなかったのかも知れない。

だから身体が制御できず

不安を抱いている子どもに対して

検査技師はなじるばかりで

更におかしくなってしまう悪循環だったw

 

大学病院でのアドバイスは水泳をせよ。

まともに泳げなかったがプールは大好き。

しかし教えても

身体をその通り動かせない。

 

だから大層な理念を抱えて、

自分の能力でも問題がなさそうな

水泳教室を母が探してきて

そこへ行ったわけだ。

しかし、そこで一生のトラウマに残るような

排除を受けたのは

過去に書いたとおりである。

私も大ショックを受けたが、

母もそれ以上にツラかったに違いない。

 

それ以降も教師による無配慮な指導はあった。

書けないことも沢山あるが書ける範囲で

クラス対抗のソフトボール大会で

女子を含め一人だけ出場させられない一方で

50m10秒の自分が、韋駄天揃いの

区の100m走に半強制出場させられた。

夕陽に向かって走れ、

完全に青春ドラマのノリだった。

 

ちなみに自分は努力家で

認める人は認めていたはずだ。

人一倍走っていたし、何とかキャッチボールは

出来るよう、またバットにボールが当たる様

皆が塾で勉強している間

一人で壁「かべ君」を相手にする毎日だった。

それでも人並みにすらならなかったw

 

理科の実験、講堂で男女が向かい合って

男がバットのグリップ、女が太い方を持って

順番にねじる。腕力の劣る女子でも

楽に男子をひねれるという実験。

ところが私のときだけ逆にされた。

私は身体の自由がきかなかったため、

普通に負けさせて欲しかった。

ところがそうさせてはくれなかった。

交代させられただけで、バカにされた気がして、

いい気持ちはしなかった。まさかとは思ったが、

それでも40組近い中で

ただ一人絶対優位な条件でさえひねられたのだ。

あの屈辱は筆舌に尽くしがたかった、

一生のトラウマ、余計に弱点克服に躍起になり

指導なき回り道をしてしまった。

 

100m走やソフトボールは

母も知っていたはずだが

バットの実験やその他のことは言わなかった。

しかしどんどん壊れていく自分を見て

ずっと心を痛めていたのだと思う。

東に西に色々なところへ相談にいき

逆効果の繰り返しだった。

 

ちょっと特殊な関係になったかも知れない。

だから邪険には絶対に出来ない思いが強かった。

 

認知症になってからも

時折母の顔を覗かせていた。

私の動作が覚束ないのは

潜在意識のどこかに残っていて

しかも未だに改善されていないのだから

時折どっちが介護されているのか

分からないことも多かったw

 

さて、自助について。

教えてくれないと、ずっと自分で誤った動きを

続けて却って逆効果になることもある。

しかし、時間軸さえ取れば

確かにブレイクスルーの瞬間ってある。

と言っても普通なら1分で出来ることに

10年かかったりするわけだから

人生の時間を考えれば恐ろしく非効率だ。

え!?大袈裟なと思われるかも

知れないが本当だ。

 

小学入学と同時にタイムを計られた50m走

私は10年間10秒を切ることが出来なかったw

ところが高校時代、突如ひらめいたら

いきなり9秒を切ることに成功したのだ。

この時に勝る喜びはなかった。

同級生に熱っぽく話したが

全く相手にされなかったどころか

鼻でせせら笑われた。

周りは文武両道のエリートだらけ

7秒台が普通なのに8.9秒で大喜びを

する人間なんて信じられなかったんだろうな。

 

当たり前でもわからないもん、できないもんは

どうしようもない。

決してふざけているのではない。

こういう人間も存在する。

認知症を見ていて、全く同じだと感じた。

人間みなチョボチョボや。途中はどうあれ

どんな屈強な人間でも最後は一緒。

 

こんなんだから理不尽な規則のオシツケ

には随分悩まされた。

特に詰め襟後遺症には

未だに悩まされたままだ。

近頃、心理的絶望感からか、

けいれんがひどい。
コップでもお椀でもこぼしてしまう。

冬だが温かい汁物は

大火傷のリスクで御法度。

訴えたとしても負け犬の遠吠え

どうにもならんのがPTSD 。

くだらん芽は摘むに越したことはない。

 

だから、感染防止効果が判然としないのに

出来ないお子さんにまで

マスクを押しつけ、苦しめても

何とも感じない教育現場の

旧態依然たる姿には

怒りを禁じ得ないのだ。

 

思い出の丘に残してきたものを

取りにおいでよと

小鳥がささやいた

 

鈴木ヒロミさん

これも石立鉄男さんの亜種w

 

鈴木刑事、池原刑事、相馬課長

そして小林刑事、日の出署の面々だってば