2010年2月

母はバイクにはねられた。

頭を強打し、鎖骨、足を折る重傷。

3ヶ月の入院。

幸い頭には異常は無く

命があっただけでも幸運。

この時点では頭もしっかりしていた。

ただ頭については

後ほど異常が出ることもある

ただ稀なことなのでそれほど

心配は要らないと言われた。

 

しかし1年半後に様子がおかしくなった。

都心ホテルで開かれる大学の同窓会

それまでは地下鉄を乗り継いで

たどり着くことが出来たが

現地まで付き添わぬとダメな状態。

 

それからいわゆる

「物忘れ」の症状が出始める。

財布を含め自分の持ち物は管理できない

同じことばかり何度も言う。

それでも医者には行かなかった。

私は1年半前の医師の言葉が気になって

脳の検査はしておいた方がと思ったのだが

父がそれに反対した。

 

以降医者にかからずの生活

脊柱管狭窄持ちなので

定期的に腰痛は訴えるが

手術はせず、姑息療法

つまり私のマッサージでしのぎながら

毎日相当な距離を散歩していた。

散歩しながら空を眺め、道ばたの花を眺め

行き交う人と挨拶を交わし

時折立ち止まって話をする

スーパーで商品を物色する

と言った生活が適度に脳に刺激を与えて

いたのだろう。

通院でお薬をもらうのも止めた。

検査をしたわけではないが「物忘れ」以外は

異常は無く健やかに暮らせていたと思う。

 

しかし、2020年緊急事態宣言で

外出がままならなくなってからは

衰えが加速度的に進行した。

 

40年も前に亡くなった母(私にとっては祖母)や

35年前に亡くなった兄(伯父)

に会いに行く「帰る」と

頻繁に言うようになった。

いわゆる「夕暮れ症候群」と相俟って

徘徊リスクが急激に高まった。

夕方ほどでないが、午前4時とか明け方も……

まぁこれが日常茶飯になってしまって

傍から見れば大変な状態かも知れないが

何とかしのいできた。

『今ハワイで幸せに暮らしているから

会いには行けない』

とかその場しのぎ、姑息なデタラメを

その都度考えるのもさほど苦では無かった。

何しろ言ったことは直ぐに忘れてくれるので

後腐れが無い、その場しのぎ、姑息だが

機嫌さえ取り直せば良かった。

 

母は2020年まで徐々に衰え

コロナソードー以降一気というパターン。

 

前述したことだが

コロナソードー以降はごく稀にだが

食事を口にしないことがあった。

どんなときでも喜んで食べた

バナナもあんぱんも海鮮丼も口にしない

こんなときも試行錯誤、工夫。

まずはアイソカルゼリー、

これは評判通りで食べてくれた。

徐々に通常食に戻す。

観察していると黄色い物が好き。

テイクアウトの回転寿司でも

玉子、あとは一番高いウニw

を一人で平らげてしまう。

 

緑の野菜は単独で出すと口にしない。

これを利用して、玉子、カボチャ、

コーン、いも等を混ぜて与える。

この類いは聞き取り調査の度

詳細に説明しているつもりなのだが

果たして通じているのかどうか……

 

父の場合。

物忘れという助走区間をまったく経ず

一気に症状が噴出した。

こちらは医療負担については日頃から

充分気を遣っているのに

コロナソード-化では

一緒くたにされちゃって

全く聞いてもらえない状況

最終的には酸素飽和度50台

これとて最初は誤測とあしらわれた。

流石に苛ついたが事細かに説明して

やっと納得して受け容れてもらった。

が、処置は遅れたのだと思う。

父が1万歩強/日の散歩貯金の成果

年齢の割に筋力も体力もあり

一命を取り留めただけであって

通常ならあの時点で生命自体が

終わりだったのだと思う。

 

退院直後10日ほどは確かにところどころ

おかしかったが、自宅の環境に慣れると

落ち着きを取り戻し1ヶ月半ほどは

平常であったのだが、突如

ある日を境に妄想が常態化してしまった。

5月1日以降は何を話しても

彼の「妄想」に結びつけられてしまい

まともな会話が一切成立しない

 

認知症、物忘れは対処する方としては

「イライラ」するかも知れないが

慣れてしまえば大したことはない。

困るのは『周辺症状』

つまり妄想、就中被害妄想である。

母はそうではなかったが

父の場合、これが定着してしまった。

それも、ある夜を境に、突然。

 

だから、このブログにも

私なりの観察と感想、解決法を

書いたのだが、どれも適わず

為す術無く収拾が付かなくなった

という感じなのである。

 

亡くなったはずの肉親が存在する

これに対処する場合。

母は前述したとおり楽だった。

 

ところが父はwww

こちらは亡くなっているのが

コンセンサスと思い

ついその前提で対処してしまうと真に厄介。

「昨日この部屋で会った」

と主張するのだ。

部屋で話をした人は

亡くなったはずの肉親に限らず

多種多様にわたって

その会話内容を説明して

私に何かをして欲しいらしいのだが

いくら聞いても意味はサッパリ分からず。

こちらとしては聞き流すか

「心配しないで、全部僕が対処しておくから」

と言う以外ない。

が、これが気に入らないらしい。

 

すぐに忘れてくれる母とは違い

こちらのちょっとした対処が

「お前は否定したが」

といつまでも繋がってしまい

リハビリさんにもケアマネさんにも

訪れる人皆に「息子は否定するが」

と言っている。

聞かされた方はなんのこっちゃ

意味分からないみたいだけど^^;

 

言葉にすりゃ一瞬で大したことないようだが

結構修羅場なのである。

母の場合、会いたいに対し

「今すぐは無理」とかでお茶を濁せるが

父の場合は「さっきまで会っていた」

だからどうしようもない。

「お前はいつまで芝居するんだ」

「嘘をつく必要はない」

となってしまう。

 

更なる奇行にも繋がる

こちらが困惑して席を外すと

杖であちこちをつついて散らかす

受話器を外す

電源を片っ端から抜く

挙げ句は意思確認をして出しているのに

用意した食事は食べない

 

同じ事でも母とは全く負担が違う

とにかく「意味不明な要求」が多く

それを四六時中聞かされていて

どう対処したら良いのか

サッパリ分からないのだ。

コント55号のコント

欽ちゃんと二郎さんに例えてきた。

 

だからお薬云々より

まず「環境」を訴えていたわけだが

オモシロス閣下の

支配に置かれた世の下では

ど~にもならんかった

 

訪問医に「薬は出来るだけ避けて」

と言っただけで

いちいち説明しなかったが

おくすりならば次善の策として

メマリーやツムラの抑肝散は

試す価値はあったのかも知れない。

しかしメマリーは心臓の手術をしていて

脈が安定しない父には逡巡したんだな。

 

やっぱそれ以前にまず「環境でしょ」

という思いが強かった。

本来なら簡単にできることだが

『そのうち変わりますよ』

実際のセケンは

ニシウラのジュバクは振り払えず……

ここまで坂道を転げ落ちてオロオロ

ブレーキはかけられず

ズルズル来てしまった。