2014/9/28 記

先々週に放映されたNHKスペシャル
臨死体験
立花隆 思索ドキュメント
死ぬとき心はどうなるのか

 これは大変興味深い内容でした。
死後の世界があるかどうかについては、いわゆる臨死体験というのは人間の進化の初期で発達した、大脳辺縁系の働きによるもので、死の間際に大量の脳内物質を分泌し、幸福感を持ちながらそのときを迎えられる人間本来に備わった合理的な機能ということで、死後の世界には否定的でした。

 面白かったのは、そこに至るまでの過程です。
現実には起きていないフォールスメモリー(false memory)というのがあるのだそうです。
 これを意図的に植え付ける実験の模様が流れました。
40歳くらいの被験者でしたが、幼少時行ったこともない気球旅行の合成写真を作り、それを見せて質問をします。
 最初は「記憶にない」と答えるのですが、それを何度も繰り返す内に旅行の詳細をつぶさに語り出すようになる。つまり、フォールスメモリーが作られてしまうのですね。利根川進氏によれば、人間はフォールスメモリーを作りやすい動物だそうです。

 御年74の立花氏自らが被験者になる場面もありました。
 自分ソックリのズボンを履いた人形の足が映っているゴーグルをつけ、立花氏と人形の足に同時に刺激を与え続けます。そのうち、人形の足と自分の足の感覚がこんがらがり最後に人形の足に落ちてきた包丁を見て身もだえをします。
 脳はだまされやすいのですね。

 デカルトの有名な言葉に
「我思う、故に我あり」というのがありますが、
立花氏はこれを受けて
「我感覚す 故に 我過つ」と表現されました。
人間は正しい感覚をもつ一方で、過った感覚を無意識のうちにでさえ持ってしまうこともあるんですね。
この表現は人間というものにやさしく、それと同時に引き締まった気持ちにもさせられます。

 過った感覚・勘違いというのは、時として人を傷つけてしまうことに繋がりますから、自分の感覚には常に疑念を抱くくらいで丁度良いのかも知れませんね。
 充分に気をつけながら行動していきたいと、この番組を見て、改めて思わされました^^
 難しくて、人生永遠の課題ですけど^^;

 追記

その後これに関連した面白い記事を読みました。
週刊文春に集中連載された立花隆「死は怖くない」
以下備忘録代わり
週刊文春11/13号
3回目(最終回)より要約・抜粋

立花「いよいよ死ぬときになったとき、ベッドは温かすぎたり、寒すぎたりしないようにすることですね」

立花「02年に亡くなった医師の話ですが、彼は生涯に三回も臨死体験をしました。一回目と二回目の体験はハッピーで、こんなに楽に死ねるかと思ったらしい。が、三回目は、とにかく暗くて寂しい体験だった。初めの二回は暖かい布団の中で生理的に快適な状態だったのに対し、三回目は救急病院で薄い病院着一枚だけで寝かされていたと言うことです。」

立花「この逆もあり得て、死の床を暖かくしすぎると灼熱地獄の臨死体験をするかも知れません。臨死体験は脳が最後に見せる夢に近い現象ですから、いい臨死体験が出来るように、死の床をなるべく居心地よくしておくのが肝要です。研究が進めば、どういう環境に置かれたとき、人はハッピーな臨死体験・臨終体験が出来るのか、といった知見がもっと集まるでしょう。」

 

こちらは 天才バカボン「恐怖のあつがり人間なのだ」

 

 →

どんなに努力をしても灼熱の夢を見て、

寝汗をドップリかく男

 

困ってバカボンのパパに相談し、

氷のベッドで寝ることを提案されます。

 

立花さんの書かれているとおり

赤塚さんは天才。