以下過去記事を少しだけ書き直しました。

 最近、引っかかることがある。

 今回は軽度の障害について、ちょっと感じたこと。

 

 障害者って何だろう?

 障害者と言われる人たち自らが、障害があるって端から認識しているものなのか

 おそらく最初は漠然と、言葉では旨く説明できないけれど、人と同じ事が出来ないよなぁ……という違和感の認識から始まるのではないか。これを敢えて不自由と表現してみます。

 

 つまり障害と言う概念自体、今ある社会からの一方的な押しつけ、もっと言えば洗脳に近いものではないかという気がするのです。自分で認識した「不自由」の段階では、社会からもっと急げよとか、何でそんなことが出来ないのとか、無理矢理な適合を求められない限り、本人からすれば何の問題もない、ちょっとした工夫で切り抜けられる場合もあるのではないか。

 

 これは不自由を抱えた側も同じです、社会への一方的な強要は軋轢を生む事だってあります。互いに一方的な価値観を無理強いしない、思いやりのある社会。抜本的に認識を変える必要性を感じます。

 

 不自由と障害とは違います。不自由はその人の個性、障害は社会が作り出した物理的・心理的な壁と捉えることは出来ないでしょうか。

 

 確かに枠組みを変えるのに政治の力は必要で、政府の対応には不安を感じます。ですがその前に私を含めた、個人個人の意識を変えることはもっと重要かと思います。私はコロナ以降、これをより強く感じるようになりました。

 

 コロナはエボラのような伝染病では決してありません。これを闇雲に排除しようとする姿勢、それが生み出すこわばった空気の方が余程キケンです。

 ちょっとした不自由なら受け入れましょう。
むしろappreciate「当然のことと評価」しましょう。
 

 これを徹底排除しようとする姿勢こそ
イジメや諍いの正体(の一つ)なのです。
さぁ、今こそ発想の転換をしましょう。
 カジョウタイサクほど

世間を腐らすものはありません。
これを石橋を叩きすぎて壊す、とも言いますw

 

 人間誰しもが特異な能力あるいは

生物学的に備えられた

素晴らしき身体的機序(免疫とか)

例えるなら「石橋」があります。

これを石橋を叩きながら、慎重に鍛えて

発育を促すのが本当です。

 しかし強者側の一方的な『べき論』で

不自由と決めつけたものを

徹底的にたたき壊そうとする。

結果せっかくの長所まで消えてしまうのです。

過度な干渉、タイサクほど愚かなものは

ないのです。