「手当(てあて)」という言葉を、じっくりと考えてみる。 | JR高円寺駅から1分のところに引っ越しました。フェニックス整体院です、

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怪我とか病気とかに対処することを言うときに、
「手当(てあて)」という言葉を使うが、

私は、ある時から、「手当」のもともとの言葉である
「手を当てる」という表現について

気になり出したのである。

それは私の施術のスタイルが、押すでもなく、揉むでもなくて、
まさに「手を当てる」という言葉が一番近いことに

気がついたからである。

そうか、私は手当をしていたのか、とちょっと驚いたのだ。


「胸に手を当てて、よーく考えてみなさい」
という表現があるが、

これが表しているのは、手を当てると
考えるという行為に効果があるということだろう。


「当てる」というのは、ただ置いているのではなく、
手に、施術している人間の意志というか、気持ちというか、

「心の姿勢」のようなものが出ている感じがする。

施術のときに、私はクライアントの体に手を当てるわけだが、
その時何をしているのかというと、

クライアントの体から発せられている信号を
必死に感じ取ろうとしているのである。

もちろん手は施術をするわけだが、
その施術の前に、クライアントの体の状態を

感じ取るという行為をしている。

それで局所的なコリももちろん感じるわけだが、
クライアントの体全体から発せられている「何か」も

感じている。

というのは、ある箇所に来ると、私の手が、裏返しになって、
手の甲をクライアントの体に向けている

というようなことがあるのだが、

やっている当人の自分でも
なんでそんなことになるのか、わからないのである。

手が勝手に裏返しになるのだ。

だから、感じているのは「気の流れ(のようなもの)」
ではないかと思われるが、

ここらへんは謎である。


それで「手を当てる」に話を戻すと、
手を当てると、悪い状態が消えていくのである。

その時何が起きているのかと考えると、

手を当てると、その手の(かすかな)重みで
そこの(滞っていた)リンパ液が動き出すからだろうと思われる。

(この場合のリンパ液というのは、リンパ管の中を通っているものではなく、
体内の細胞の間を動いているものを指している。)


押したりもんだりするような力を加えることは
リンパ液を動かすという目的に対して、

邪魔になってしまうのだと思われる。

だから、手技では
手の圧力の加減としては

「当てる」くらいの力がちょうどいいのであって、
手押しでもなく、手もみでもなく、

「手当」という言葉が使われているのだろうと
私は勝手に思っているのである。

今述べたことは
特に顔の施術のときには重要である。

顔のむくみはリンパ液の滞りだから、
それを動かすには軽い圧でないといけない。

間違っても、ゴリゴリやるのは逆効果である。

(顔の前に首肩、そして頭の施術を
しないと顔は変わらないのであるが、

これについてはまた別のところで
述べることにする。)


最後になったが、「胸に手を当てて、よーく考えてみなさい」
という表現を考えてみると、

胸に手を当てることで、
胸にある経絡の経穴が刺激され、

リンパ液が動きだすことで、
首から肩の筋肉もほぐれて、

さらには頭の血流とリンパ液の流れがよくなり、
頭が働きだすのである。

それで思考活動が活発になり、
アイデアも浮かぶ状態になると考えればいい。

長くなったので、このへんで。