前回の投稿に引き続き「頑固親爺の徒然手記(難問解決への道標) 報道の精神はどこにある 」への感想である。


いじめはどうすれば防止できるか。この重大なテーマに対して書かれた小田晋氏の著書がある。G氏は紹介したブログで、これ対して持論を主張なさっている。

この大学の名誉教授で、国際医療福祉大学教授の小田晋先生の著書に、「大人社会のいじめ心理を分析しよう」と題した本がある。

重箱の隅をつつくようで甚だ恐縮だが、小田晋氏の著書は「大人社会のいじめを心理分析しよう」(大和出版、ISBN4-8047-6070-9)だ。「大人社会のいじめ心理を分析しよう」という本は、私が探した限りでは地球上には存在しないと思われるので、探して読もうという人は注意してほしい。


まず、この本が「どうすれば大人社会のいじめを防止できるか」というテーマに関して書かれているという点を指摘しておきたい。それは、この本のまえがきには『「いじめ」防止のための処方箋として』(p.3)と書かれていることからも容易に想像できる。


G氏の主張によれば、はこの本には次のようなことが書いてあるという。

人間に限らず脊椎動物が基本的にもっている3つの欲求は食欲、性欲、攻撃欲で、いじめは、この攻撃欲の発現であって、生命の存続に不可欠なものとされている。

最初にこの文章を見たときには、いじめが生命の存続に不可欠ってどういう意味なのだろうかと驚いたのだが、小田氏の原文には次のように書かれている。

いじめというのはつまり、他者に対して肉体的、あるいは精神的に攻撃を仕掛ける行為である。そしてこの攻撃性がなければ、いかなる脊椎動物も生きていくことはできない。

(小田晋著、大人社会のいじめを心理分析しよう、p.30)


つまり、小田氏の主張は攻撃欲は、生物が生きて種を残すためには不可欠な性質の一つだということであって、いじめが不可欠などという話ではない。そもそも、この本は「いじめ」防止のために書かれているのだから、いじめが防止できるという前提がないとおかしいだろう。しかし、G氏は次のように主張なさっている。

教授も、攻撃欲がある限りいじめはなくならないとの考えである。

一般論として、どのように本を理解するかは読者の自由に委ねられていると考えるべきだろう。だから、G氏がそう解釈されるのは構わないと思う。ただ、私には、そのようなことが一体どこに書かれているのか理解できなかった


私見としては、むしろその逆で、小田氏の考えを要約するならば、「いじめ行動が人間の本質的なものである」(p.33)ことを承知した上で、「犯罪という認識をもたせ」(p.37)たり、文化という「攻撃の抑制機能」(p.40)を刷り込むことで、いじめに対応できる、ということではないかと解釈したい。


「対応できる」というのが「なくならない」という意味なのだと仰るのなら、そうですかとしか言いようがないが…。


いじめ自体はある意味昔からあった。少なくとも30年以上前から話題になっていた。ただし、現在問題になっているような「いじめ」は、より最近になって急激にクローズアップされてきた問題である。また、さらに遡って昭和の初期、あるいはそれ以前に現代のような「いじめ」が問題になることは希であった。


もしいじめが人間の本質的な行動で、なくすことのできないような性質を持つなら、昔から今のようないじめがあったはずである。いじめが現代に特有の問題であるのなら、それは現代社会にいじめを誘発する要素が現れた、もしくは以前は存在した「いじめを抑止する要素」が失われたと考えるのが合理的だと思われる。


実は、昔はいじめを抑止できていた理由がこの本に出てくる。小田氏の主張によれば、例えばそれは「ボスの存在」や「管理社会」で説明できる。ただ、今回これについて詳しく述べると話題が逸れすぎるので、省略させていただく。


(つづく)